に拘らず、多くは、若返る・蘇生するなどに近い気分を有つて居るのは、語根にさうした意味のあるものと思はれる。後に言ふ、聞得大君御殿《チフイヂンオドン》の神の一なる、おすぢの御前[#「おすぢの御前」に傍線]は、唯、神と言ふだけの意味で、精しくは、金のみおすぢ[#「金のみおすぢ」に傍線]即、金の神、或は米の神、或は楽土(かない)の神と言ふ位の意味に過ぎない。而も其もとは、霊魂或は、精霊と言ふ位の処から出て居るのであらう。琉球国諸事由来記其他を見ても、すぢ[#「すぢ」に傍線]・せぢ[#「せぢ」に傍線]・ますぢ[#「ますぢ」に傍線]などを、接尾語とした神語がある。柳田国男先生は、此すぢ[#「すぢ」に傍線]をもつて、我国の古語、稜威《イツ》と一つものとして、まな[#「まな」に傍線]信仰の一様式と見て居られる。
とにかく、近代の信仰では、すべてが神の観念に飜訳せられて、抽象的な守護霊を考へる事が、出来なくなつて居る。けれども、長く引続いて居る神人礼拝の形式を溯つて見ると、さうした守護霊の考へられて居た事は、明らかである。
沖縄に於ては、妹《オナリ》をがみ・巫女《ノロ》をがみ・親《オヤ》をがみ・男《オ
前へ 次へ
全60ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング