るのか決して知らない。神人には役わりがめい/\割りふられてゐて、重いものは何某の神に扮し、軽い者で歌舞《アソビ》を司る様である。さうして一々にそれ/″\神名がついて居る。山の神・磯の神或はさいふあ[#「さいふあ」に傍線](斎場御嶽の事か)神[#「神」に傍線]・にれえ神[#「にれえ神」に傍線]など言ふ風な名である。其外に、神人の神事に与つて居る時は、あそび神[#「あそび神」に傍線]・たむつ神[#「たむつ神」に傍線]など言ふ風に言ふ。さうして其中、其扮する神の陰陽によつて、誰はうゐきい神[#「うゐきい神」に傍線](男神)彼はをない神[#「をない神」に傍線](女神)と区別してゐる。人としての名と神としての名が、何処ののろ[#「のろ」に傍線]に聞いても混雑して来る。
事実、あちこちののろどんち[#「のろどんち」に傍線]に残つた書き物を見ても、神人の常の名か、祭りの時の仮名《ケミヤウ》か、判然せぬ書き方がしてある。殊にまぎらはしいのは、七人・八人とかためて書く様な場合に、七人・八人、又は七人神・八人神と書いたりする事である。実名も神名も書かないで、何村神と書いて、一年の米の得分を註記してある類もある。何村何某妻何村何某妻うし何村何某母親などあるかと思ふと、何村伊知根神[#「伊知根神」に傍線]何村さいは神[#「さいは神」に傍線]何村殿内神[#「殿内神」に傍線]など言つた書き方も見える。神人自身、神と人の区別がわからないので、祭りの際には、尠くとも神自身と感じてゐるらしい。其気持ちが平生にも続く事さへあるのである。神人を選択するのはのろ[#「のろ」に傍線]、根神《ネガミ》は、一人子の場合は問題はないが、姉妹が多かつたり、沢山の女姪の中から択ばなければならなかつたりする時は、ゆた[#「ゆた」に傍線]に占うて貰ふと言ふ変態の為方もあるが、大抵は病気などに不意にかゝつて、次の代ののろ[#「のろ」に傍線]として、神から択ばれたといふ自覚を起すのである。
処が、唯の神人《カミンチユ》は、さうした偶然に委せることの出来ない程、人数が多い。それで選定試験が行はれる。大体に於て、久高島に今も行はれるいざいほふ[#「いざいほふ」に傍線]といふ儀式が、古風を止めてゐるに近いものであらう。いざいほふ[#「いざいほふ」に傍線]をうける女は、若いのは廿六七、四十三四までが、とまりである。午年毎に、第三期ま
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