傍線]・しねり[#「しねり」に傍線]は、やはりにらい・かない[#「にらい・かない」に傍線]、なるこ・てるこ[#「なるこ・てるこ」に傍線]同様に、信仰の上の理想国に過ぎないのであらう。まや[#「まや」に傍線]・いちき[#「いちき」に傍線]と言ふ語も、同音聯想は違つた説明をも導く様であるが、やはり南方での、儀来河内《ギライカナイ》なのであらう。楽土の主神の名のあがるい[#「あがるい」に傍線]は、東方《アガリ》と言ふ意を含んでゐる。東海の中に、楽土を観じた沖縄本島の人の心持ちが見える。
此外に尚一つ、天国の名として、おぼつかぐら[#「おぼつかぐら」に傍線]と言ふのがあつた様である。混効験集には「天上の事を言ふ。いづれも首里王府神歌御双紙に見ゆ」とある。天帝(太陽神)の居る天城で、あまみきょ[#「あまみきょ」に傍線]・しねりきょ[#「しねりきょ」に傍線]も其処から来たものである。併し、此も「……雨欲しやに、水欲しやに、おぼつ通ちへ、かぐら通ちへ、にるやせぢ、かなやせぢ、まきょにあがて、くたにあがて……」などあるのを見ると、此語のなりたちも、大体は想像がつく。
屍解して昇天する話は、限りなくある。此は選ばれた人ばかりが、儀来河内《ギライカナイ》に入るとせられた考へから出たのである。善縄大屋子《ヨクツナウフヤコ》の様なのもあるが、大抵は神人の上にある事なのである。のろ[#「のろ」に傍線]に限つて、洗骨せぬ地方もあり、洗骨しても多くは、家族と同列に骨甕を列べないのを原則としてゐるのは、屍解昇天する人と然らざる者とを区別したので、若し此に反くと、神人昇天出来ぬ為に、祟る事があると考へられてゐたのであらう。此事は我内地の文献にも、同様の例を留めてゐる。

     五 神々

琉球の神々を、天神と海神とに分つ。此等に関した文書は、琉球神道記の他に、球陽がある。球陽を漢訳したものが、中山世鑑である。
琉球の王室で祀つた神を、君真者《キムマムン》と言ふ。真者《マムン》とは、尊者の称呼である。此を正しい文法にすると、真者君と言ふことである。琉球の神々と、内地の神々との最甚しい差異点は、琉球の神々は、時々出現することである。此出現を、新降(あらふり)と言ふ。球陽の説では、君真者《キムマムン》は、天神と海神との二つで、色々の神々を、此二つに分類して居る。此神々は、年に一度出現する神もあれば、三
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