線]を和らげたもので、儀式で言へば、直会の時の詞である。此を口誦するのは、神の資格に於てするのであつた。此が歌垣の庭の中心行事となつた。相聞唱和の風が盛んになるのも、うた[#「うた」に傍線]にはふり[#「ふり」に傍線]が酬いられねばならなかつたからである。
歌に対するふり[#「ふり」に傍線]の和せられる式の逆になつたのが、うたへ[#「うたへ」に傍線]で、神に問ひかける形をとるのだ。巫女から神に、女から男に、臣から君へまづ言ひかけてゐるのは、多く此部類に入る。出雲振根の「たまもしづし」の歌・三重采女・仁徳記の「つゝきの宮」の歌・赤猪子《アカヰコ》の歌など、うたへ[#「うたへ」に傍線]である。「よごとにも一詞《ヒトコト》、あしきことにも一詞、ことさかの神」と名のつた一言主神のあるのを見れば、のりわけ[#「のりわけ」に傍線]の詞は短かつたものであらう。

     五 相聞

二人でかけあはせた本末の片哥を続けて、一体の歌と考へられると、旋頭歌の形式はなりたつ。だから、又、旋頭歌を唱和した様な形式さへ出来てゐた。又、旋頭歌として独立したものでも、自問自答の形をとつてゐるのが普通である。片哥の
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