るやうである。其機運が熟して来た為に、柿本人麻呂の如き人が、出て来たものと思はれる。つまり作者自身が、其感情になつて、宮廷或は貴族の感情を想像して代作をするのである。
日本では、自分の欲求から歌を作ると言ふより前に、先づ代作の歌が行はれてゐる。即、古くは、自分の感情を歌として現はす必要はなかつたのである。団体とか、或る貴い人の感情を、下の臣が代つて謡うたのである。感情表現の歌と言ふよりも、昔から伝へられた形式一偏の物でよかつたのである。かうして居る間に、一方に於て有力なものが働きかけて、自分自身で歌を作る動機が、発生した。即、抒情詩を生み出す機運に向いて来たのである。だから万葉集に見えて居るものゝ中で、奈良朝以前の歌は、代作の歌が多いと思つてよい。万葉集を見ると、此傾向が、ひどく力強くあらはれて居る。其が、代作の時代から真の抒情詩を産み出した天才歌人人麻呂を、一時に飛躍させる原動力になつた。人麻呂の抒情詩は、今日見ると、代作と称して居ないものでも、代作的のものが多い。
純粋の抒情詩は、其本人の感情が鍛錬された奈良朝時代に入つてからである。即、鍛錬されたものは、一方から流れて貴族によつて
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