き直されてゐる様である。あめのさかて[#「あめのさかて」に傍線]を拍つて、征服者を咀《のろ》うた一つの物語が、不調和に感じられるまで整理せられた性格の記述を裏切ると共に、かうした憤怒・憎悪・嫉妬を十分に具備した人として伝へられてゐたに違ひない。
       村々の神主
日本歴史の立ち場から見た古代生活は、村を以てゆきづまりとする外はない。其以上は、先史遺物学者との妥協をめど[#「めど」に傍線]にした空想に過ぎない。文献によつて知る事の出来る限りの古代には、既にかなりに進んだ村落組織が整うてゐた。村限りの生活が、国家観念に拡つて来はじめたのが、万葉びとの世のはじめで、其確かな意識に入り込む様になつたのが、此論文の主題の結着である。
其以前は、村自身で、一つの国家と考へてゐた時代である。よその村は、敵国である。もつと軽い語で言へば、いつでも敵国となるはずの国々であつた。さういふ時代の話からしてかゝらねば、万葉びとの国民としての心持ちは、考へることが出来ない。
村を又、ふれ[#「ふれ」に傍線]・しま[#「しま」に傍線]とも、くに[#「くに」に傍線]・あがた[#「あがた」に傍線]とも言うたのは、此時代である。みち[#「みち」に傍線]・ひな[#「ひな」に傍線](山本信哉氏などは、あがた[#「あがた」に傍線]をも、同類に考へてゐる)と言ふ語《ことば》は、元はよそ国[#「よそ国」に傍線]・他国《ヒトクニ》位の積りが、遠隔の地方を斥《さ》す様になつたとも考へられる。あきつしま[#「あきつしま」に傍線]・しきしま[#「しきしま」に傍線]・やまとしま[#「やまとしま」に傍線]は、水中の島から出た語尾でなく、却つて村の意味の分化したものと見るがよからう。三つながら、枕詞或は、直様日本の異名として感じられる様になつて来た。それは、大和朝廷の、時々の根拠地になつてゐた村名に過ぎないのである。大和の北と真中の平原にあつた村々を支配するまでに、づぬけて勢力を持つて来たのが、山辺郡|大倭《ヤマト》を土台にした村だつたのである。
泊瀬の国・吉野の国などは、万葉にも平気に使はれてゐる。しま[#「しま」に傍線]ともくに[#「くに」に傍線]とも言ふ村が、大和一国にも、古ければ古い程多かつた。大和以外で言うても、国の名を言ふ村の数が、後世の国の幾層倍あつたか知れない。しま[#「しま」に傍線]は、くに[#「
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