どうしでないばかりか、世を直し進める第一の力であつた。此点は既に和辻哲郎氏も触れた事がある。

     四

人の世をよくするものは、協和ではなくて優越であり、力ではなくて智慧であることに想ひ到るまでには、団体どうしの間に、苦い幾多の経験が積まれたのである。おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]を仰ぐ人々の間には、長い道徳にかけかまひのない生活が続いてゐたのであらう。
昔程、村と言ふ考へが明らかである。立ち入つて見ると、個人の生活は、其中に消えこんで了ふ。
すべての生活を規定するとゞのつまりが、村であるとすれば、村々の間に、相容れぬ形の道の現れて来るのも、極《ごく》自然な筋道である。手濡らさずに、よその村の頭をうち負した智力のぬし[#「ぬし」に傍線]が、至上の善行者と考へられるのも、尤である。其が凡庸な個人の上に翻《ウツ》された民譚・童話にすら、後世式な非難の添はないのも、かうした出発点があるからである。智慧あつて思慮の足らなかつたいなばの白兎[#「いなばの白兎」に傍線]の話なども、私に、単純な論理に遊ぶ癖があつたら、兎はおほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]、鰐どもは兄八十神を表したものと言ふ事も出来さうである。
さうした立ち場から、部分の類似をつきつめて行けば行く程、事実から遠のく。唯、円満に発達しきらぬ智慧の失策を見せたものとだけは、見ることが出来る。さうして此話が、おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]の智慧の発達に、ある暗示を持つてゐるものと見てもよさゝうである。
       仁の意味
白兎の話が示した人道風な愛は、残虐であり、猾智である所の倭なす神[#「倭なす神」に傍線]には、不似合ひの様に見える。併し、外に対しての鋭い智者は、同時に、内に向けての仁人であつたはずである。尠くも、さうあるのを望んだ事は、ほんとうであるはずだ。残虐な楽しみを喜ぶ事を知つた昔びとにして見れば、それの存分に出来る権能は、えらばれた唯一人に限つて許される資格と考へた事であらう。智慧・仁慈・残虐は、ぱらどっくす[#「ぱらどっくす」に傍線]ではなく、倭成す神の三徳と見る事も出来るのである。
泊瀬天皇ぐらゐ、純粋な感情のまゝにふるまうた人はなかつた。瞬時も固定せぬ愛と憎み、神獣一如の姿である。此点から見れば、おほくにぬし[#「おほくにぬし」に傍線]は、著しく筆録時代の理想にひ
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