流の対話は、講釈場でなくては聞けぬ様になつた。わたしは、四五日方々の席に出かけて、下の用例を筆記して来た。
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なにしろ千鈞の鼎をもろに[#「もろに」に傍線]挙《サ》さうと言ふ力だからたまらない。(三国志、宝井馬琴)
為懸《シカ》けてあつた崖だから、孔明の合図と共に、もろに[#「もろに」に傍線]こいつが畳めると、魏の総勢が谷間へ落ちこんだ。(同じく)
砂袋切つて落すと、恐しい勢で、城の裏山から城を目がけて、もろに[#「もろに」に傍線]水が流れこむ。(同じく)
片岡は御家人《ゴケニン》だ。穢れ役人に、調べを受ける筋はねえ、とぐつと裾を捲つて、褌をもろに[#「もろに」に傍線]出して、坐りこんだ。(河内山、神田伯治)
ぶつ倒れた奴の頭を、左手を伸して、もろに[#「もろに」に傍線]つかんだ。(清水次郎長、神田伯山)
杉の市が杖でもつて、川の水を払つたからたまらない。近江屋勘次、頭からもろに[#「もろに」に傍線]水を浴せられた。(藪原検校、小金井蘆州)
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一・二の例は、脆系統の軽々と[#「軽々と」に傍線]・たやすく[#「たやすく」に傍線]とも、受け入れられる。三・四・五は、無雑作と広義に拡充させて見ると、どうかかうか、説明はつくやうである。村田君の場合もまづ、訣りはするが、尚、不安心である。其で、今《モ》一度「両・諸」の方から探りを入れて見る。全体・すつかり[#「すつかり」に傍線]と拡げて見ると、一層訣り易い事は事実である。「電柱がもろに[#「もろに」に傍線]倒れた」なども「根柢から」と言ふ考へを下に持つた、全体・すつかり[#「すつかり」に傍線]と、説けばよい様だ。併し、現在の用語例は、全体・すつかり[#「すつかり」に傍線]にあるとしても、勢籠つた・鋭い・すばやい[#「すばやい」に傍線]などの言語情調を度外してはならぬ様である。今日の用語例は、語原的に言ふと、確かに「両《モロ》に」で、相撲などの術語から出たものと思はれる。さうでないとすると、近世的の語として「両《モロ》に」など言ふ語の発生は疑はしい。此処に尚、聊か「脆《モロ》に」語原の可能が許されさうに思ふ。さうとすれば、全体・すつかり[#「すつかり」に傍線]・根柢からなど言ふ用語例は、聯想から「両《モロ》」に結びつく為に出来たもの、と説明すべきであるやうだ。尚、序に注意すべきは、江戸語では副詞の語根を強くする為に、三音・四音になるのを避けようとしてゐる傾きが見える。「右の腕がぶら[#「ぶら」に傍線]になつた」「ぽか[#「ぽか」に傍線]とぶつ」「仰(あお)に倒れた」など言ふ類で、もろに[#「もろに」に傍線]が、脆くも[#「脆くも」に傍線]に、一縷の関係を繋いでゐるのである。
○女の家 節供《セツク》は和漢土俗習合して出来たものと考へる。そして季節の替り目を恐れる風、及び祭り・物忌みに、男は皆宮社に籠り、女ばかりが家にゐて謹んで籠つたことがあるであらう。此は古いことだが、万葉集巻十四に、
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誰ぞ。此家の戸《ト》押《オソ》ぶる。新嘗《ニフナミ》に我が夫《セ》をやりて、斎《イハ》ふ此戸を
鳰鳥《ニホドリ》の葛飾早稲《カツシカワセ》を新嘗《ニヘ》すとも、その愛《カナ》しきを、外に立てめやも
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とある。近世まで、かういふ風に男女別居して、物忌みする風は、必、あつたであらう。西[#(ノ)]宮の居籠《ヰゴモ》りなども、宮籠りに対した語で、祭りに宮に籠つた風のなごりを逆に見せてゐるのである。それで恐ろしい季節の替り目を別つ節供の日に、男が宮籠り、女の居籠ることがあつたので、五月五日を女の家(女殺油地獄)と言ふ様な――男だけの祭り故――諺もあつたであらう。尤、近松の頃には、此語の意味は訣らなかつたであらう。
○おとごぜ[#「おとごぜ」に傍線] 伝教大師・性空上人・皇慶律師などに使はれた、乙護法《オトゴホフ》といふ護法童子は、恐らく別々の者でなく、術者の手に転々して役せられて居た者、と考へられたであらう。さすれば、頗長命な役霊(すぴりつと[#「すぴりつと」に傍線])である。此護法の名が、民間に遍満して、一種滑稽な顔をした、ぱつく[#「ぱつく」に傍線]風の小魔と考へられ、乙護々々と略称されたのが、乙御と言ふ風の民間語原説から、乙御前《オトゴゼ》と還元する様になつて、一種の妖怪と考へる事になつたのであらう。
○髪形と子ども 子どもを、髪の形で類別すること、古代・近代一列である。うなゐ[#「うなゐ」に傍線]・めざし[#「めざし」に傍線]・をはなり[#「をはなり」に傍線]・ひさごばな[#「ひさごばな」に傍線]・かぶろ[#「かぶろ」に傍線]は、あまりに古い名である。わらは[#「わらは」に傍線]なども、とり上げずに、乱れたい儘に
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