ヅエ》には、八尺瓊を掛けた上に、素幡《シラハタ》を船の舳《ヘ》に樹てゝ、参《マヰ》向うた(景行紀)。又、新羅王は、素旆|而自服《アゲテマツロヒ》、素組以面縛、封[#二]図籍[#一]、降[#二]於王船之前[#一]といふ風で、念の入つた誓ひを立てた(神功紀)。後の方は、漢文の筆拍子に乗つたとも言へようが、前のもの迄、牛酒・三刄矛の一類と見るのは、聊か気の毒である。
唐ぶりとも見えぬ白旗は、此外にもある。行方《ナメカタ》郡|当麻《タギマ》郷の国栖の寸津毘古《キツビコ》が、倭武天皇に斬り殺された時、寸津毘売《キツビメ》の懼悚心愁、表[#二]挙白幡[#一]迎[#レ]道奉[#レ]拝(常陸風土記)とある話は、幼稚な詞藻をひねり廻した此書物ではあるが、出来心で筆が反れたものとは思はれぬ。
とにかく、前期王朝の頃には、戦争をやめる心を、てつとりばやく示す手段として白旗を竪てる風習を認めて居た事は、確からしい。だからと言うて、直様降服の意志表示と見るのは、早計であるかも知れぬ。何にしろ其処に歩みよる道順として、かう言ふ階段は経てゐよう。其は、汚《キタナ》き心なき由を、白幡立て、神を招《ヲ》ぎ下した場所で誓
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