を馳せた(霊異記)と言ふ。神を捉へたと言ふのは、後期王朝の初めの人の解釈で、実はあかはた[#「あかはた」に傍線]を立てゝ、神を迎へた事を示して居るのである。神功皇后が小山田[#(ノ)]邑の斎宮に入つて、自ら斎主となり、武内[#(ノ)]宿禰に琴を撫《カキナ》らさせ、烏賊津《イカツ》[#(ノ)]使主《オミ》を審神者《サニハ》として、琴の頭・琴の尾に千※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]高※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]《チハタノタカハタ》を置いて、七日七夜の間神意を問はれた(神功紀)とあるのは、沢山の長《タケ》の高い幣束で琴の周りをとり捲いて、神依り板[#「神依り板」に傍線]に、早く神のより来る様に、との用意と見る外はない。
外国語学校の蒙古語科の夜学に通うた頃、満洲人|羅《ロオ》氏から、蒙古語で幣束を Hatak と言ふよしを習うた。其後、三省堂の外来語辞典が出たのを見ると、鳥居龍蔵氏が、はた[#「はた」に傍線]の語原を、蒙古のはた[#「はた」に傍線]即幣束に関係あるものとして居られた。此は恐らく、子音kを聴きおとされたのでは無からうかと思ふ。又、白木屋の二階であつた同氏
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