みあれ[#「みあれ」に傍線]の五色の帛の長くなつた物なる事を示してゐるので、木綿のさがつた小枝を引き折る事ではなかつた様である。後期王朝の人々の見たみあれ[#「みあれ」に傍線]の引き綱には、鈴がつけてあつたと見えて、
[#ここから2字下げ]
われ引かむ、みあれ[#「みあれ」に傍線]につけて祷ること、なる/\鈴のまづ聞ゆなり(順集)
[#ここで字下げ終わり]
とあるのは、西行の
[#ここから2字下げ]
思ふこと みあれ[#「みあれ」に傍線]のしめに引く鈴の かなはずばよもならじとぞ思ふ
[#ここで字下げ終わり]
と言ふ歌を註釈にすれば、まづ納得は行く様である。但、二人の間には、かなりの時の隔たりはあるが、要点はまづ変化の無かつたものと見られる。
山家集の作者の目には、其引き綱が、今日我々の見馴れてゐる鰐口の緒同様に映つて居たらしいが、殺伐な年占が、引く[#「引く」に傍線]と言ふ語の他の用語例を使うて、緩やかな祈願に移つて行つたものと見るべきであらう。昔も今も、歌よみなどは、大ざつぱな事を言ふ者で、語通りに信ずるのは愚かしくも思はれるが、今一つ引くと
[#ここから2字下げ]
あれひきに行き連れてこそ 千早ぶる賀茂の川波立ち渡りつれ(古今六帖)
[#ここで字下げ終わり]
の「行き連れ」は、行きずりの物見人が、偶然一つの方角へ行く、と解かれさうであるが、共同の幸福を願ふ人々の行く様と見るのが、時代の古いだけに、適当な様に思はれる。
大嘗祭の儀式に、八人の舞人がてん手《デ》に執つた阿礼木(貞観儀式)は、既《ハヤ》くとりもの[#「とりもの」に傍線]の枝を、直ちに然《シカ》呼ぶまで変つて居たのか、其ともまだ、此古い祭りには、古風なみあれ木[#「みあれ木」に傍線]が宮中に樹てられ、其木綿とり垂《シ》でた枝を折り用ゐたのか判然せぬ。賀茂或は松尾の阿礼ばかりが名高くなつたおとつ世の歴史家は、此を山祇系統の神の依代《ヨリシロ》と見るかも知れぬ。併しこゝにまだ一つ、宮中の阿礼がある。
二
正月十七日の射礼《ジヤライ》に、豊楽殿《ブラクデン》の庭上、射手《イテ》を呼び出す人の控へる座の南一丈の処に、其日、夜の引き明けから樹てられる二種の立て物がある。すべて今日からは想像に能はぬ事だらけではあるが、一つは烏羅(からすあみ[#「からすあみ」に傍線]又はとなみ[#「となみ」に傍線]と
前へ
次へ
全12ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング