い木」に傍線]・神殿松たゝい木[#「神殿松たゝい木」に傍線]があり、たゝい[#「たゝい」に傍線]は「湛」の字を宛てる由、尾芝古樟氏(郷土研究三の九)は述べられた。此等七木は、桜なり、柳なりの神たゝりの木[#「神たゝりの木」に傍線]と言ふ義が忘れられた物である。大空より天降《アモ》る神が、目的《メド》と定めた木に憑りゐるのが、たゝる[#「たゝる」に傍線]である。即、示現して居られるのである。神の現《タヽ》り木・現《タヽ》りの場《ニハ》は、人|相《あい》戒めて、近づいて神の咎めを蒙るのを避けた。其為に、たゝりのつみ[#「たゝりのつみ」に傍線]とも言ふべき内容を持つた語が、今も使ふたゝり[#「たゝり」に傍線](祟)の形で、久しい間、人々の心に生きて来たのである。
神に手芸の道具を献る事は、別に不思議でも無いが、線柱《タヽリ》の一品だけは、後世臼が神座となり易い様に、ひよつとすれば、神のたゝり[#「たゝり」に傍線]のよすがとなつた物かも知れぬ。絡※[#「土へん+朶」、第3水準1−15−42]《タヽリ》・臥機《クツビキ》が夢に神|憑《ガヽ》りを現ずる事、姫社《ヒメコソ》の由来(肥前風土記)にある。機は、同じ機道具の縁に引かれたのかと思ふ。
神のあれ[#「あれ」に傍線]のよすがとなる物が、阿礼・みあれ[#「みあれ」に傍線]と呼ばれた事は、説明は要すまい。今日阿礼の事を書いた物は、すべて此語に言語情調の推移のあつた、後期王朝に出来てゐる。
賀茂祭りに、みあれ[#「みあれ」に傍線]に(としての意)立てた奥山の榊は、かなり大きな立ち木を採り(賀茂旧記)用ゐた根こじの物であつたらう。そして、種々《クサ/″\》の染《シ》め木綿《ユフ》を垂《シ》でる事が、あれ[#「あれ」に傍線]としての一つの条件であつたらしい。此際、内蔵寮から上社・下社へ、阿礼の料として、五色の帛六疋、阿礼を盛る筥八合並びに、布の綱十二条を作る料として、調布《テヅクリ》一丈四尺を出す(内蔵式)ことになつてゐる。其綱はみあれ[#「みあれ」に傍線]を舁ぐ時に、其傾く事を調節する為に、つけたものと思はれぬでも無いが、やはり祭りの終りにわが方へ引き倒して、一年の田畑の幸福を占はうとしたのが、一種の歌枕として固定するまでの、みあれひき[#「みあれひき」に傍線]の実際なのであらう。「大幣の引く手あまた」など言ふのも、引き綱がやはり、
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