ヅエ》には、八尺瓊を掛けた上に、素幡《シラハタ》を船の舳《ヘ》に樹てゝ、参《マヰ》向うた(景行紀)。又、新羅王は、素旆|而自服《アゲテマツロヒ》、素組以面縛、封[#二]図籍[#一]、降[#二]於王船之前[#一]といふ風で、念の入つた誓ひを立てた(神功紀)。後の方は、漢文の筆拍子に乗つたとも言へようが、前のもの迄、牛酒・三刄矛の一類と見るのは、聊か気の毒である。
唐ぶりとも見えぬ白旗は、此外にもある。行方《ナメカタ》郡|当麻《タギマ》郷の国栖の寸津毘古《キツビコ》が、倭武天皇に斬り殺された時、寸津毘売《キツビメ》の懼悚心愁、表[#二]挙白幡[#一]迎[#レ]道奉[#レ]拝(常陸風土記)とある話は、幼稚な詞藻をひねり廻した此書物ではあるが、出来心で筆が反れたものとは思はれぬ。
とにかく、前期王朝の頃には、戦争をやめる心を、てつとりばやく示す手段として白旗を竪てる風習を認めて居た事は、確からしい。だからと言うて、直様降服の意志表示と見るのは、早計であるかも知れぬ。何にしろ其処に歩みよる道順として、かう言ふ階段は経てゐよう。其は、汚《キタナ》き心なき由を、白幡立て、神を招《ヲ》ぎ下した場所で誓ふと言ふ、古い信仰形式の片われである。
思ふに、恐らく、語部の物語創作の際には、まだ明らかに、降服形式と迄は考へて居なかつたであらう。此白幡も疑ひなく、幣束の部に入るべき用途と形式とを、具へて居た物と考へる。神|招《ヲ》ぎ代《シロ》の幣束なる幣が、神の依り現《タヽ》す場《ニハ》の標《シルシ》となり、次いでは、人或は神自身が、神占有の物と定めた標《シメ》ともなり、又更に、神の象徴とさへ考へられる様になつたのである。私の話の順序から言へば、とりわけて白幡を用ゐずとも、よさ相に思はれる。けれども片方、故らに染《シ》め木綿《ユフ》でない事を示したのは、白和栲《シロニギテ》が、幣束として普通の物でなく、特殊の場合に限つて使うた物であつた故かも知れぬ。
白幡と似た青幡《アヲハタ》と言ふ物がある。あをはた[#「あをはた」に傍線]の木幡・あをはた[#「あをはた」に傍線]の忍阪《オサカ》の山・あをはた[#「あをはた」に傍線]の葛城山(万葉)など、枕詞に用ゐたのが、其である。何れも、山に関係のある処から旗の靡く様を山に準へたもの、と考へてゐる様である。枕詞成立の時代から言へば、此詞などは、中期に入れて然る
前へ
次へ
全12ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング