べきものである。奈良の寺々に樹て並べた外国風の幢幡は、見も知らぬ飛鳥・藤原の宮人の口などから、生れたものと思はれる。白和栲・青和栲と対照せられるのから見ても、青幡の青和栲であつた事は、断言してさしつかへがなからう。而も、其ふつさりと竿頭から垂れた様を、山に見立てたものと思はれる。
黒坂命葬送の様は、赤幡・青幡入り交つて、雲虹の様に飜つて、野や路を照したので時の人、幡垂《ハタシデ》の国と言うたのを、後人が、信太《シダ》の国と言ふ様になつた(常陸風土記逸文)とある。死人の魂の発散を防ぐ為、ある時期の間は、殯《モガリ》に、野送りに、墓の上に、常べつたり[#「常べつたり」に傍点]の招魂の道具として、くさ/″\の染め木綿の幡を立てたのである。
此幡が、今様の旗でないことは、信太《シダ》の国の地名譚のしで[#「しで」に傍線]と云ふ語から見ても知れる。神の純化が遂げられてゐなかつた頃の人々は、目に見えぬ力として、現《ウツ》し世《ヨ》の姿を消した人の霊をも、神と一列に幡もて、招《ヲ》ぎよすべきものと信じたのである。
以上によつて、私の考へるはた[#「はた」に傍線]なる物の形は、略諸君の胸に、具象せられて居る事と思ふが、ほこ[#「ほこ」に傍線](郷土研究三の八・四の九)なる棒の先に、其名の本たるはた[#「はた」に傍線]と言ふ、染め木綿の類が垂《サガ》つて居たのである。後期王朝の初めには、幡其物に直ちに、神格を認める様になつて居る。別雷[#(ノ)]神の纛《オホハタ》の神(令集解)と言ふ、山城紀伊郡|真幡寸《マハタキ》神社などが、此である。而も、やはり「纛」の字面に拘泥してはならぬ。此神こそは、賀茂のはた[#「はた」に傍線]なるみあれ[#「みあれ」に傍線]を祀つたものと言ふべきであらう。
何処の国でも、大将軍は必、神を招《ヲ》ぎよせ、其心を問ふ事の出来た人であらう。倭建[#(ノ)]命東征の際に、父帝から下された柊の八尋矛(記)や、神功皇后の新羅王の門に、杖《つ》ける矛を樹てゝ来られた(紀)といふのも、刄物のついた槍の類ではなく、神祭りの幡桙であつた事は、奈良の都になつて、神祭りに関係ありさうな杠谷樹《ヒヽラギ》の八尋桙根が、累りに諸国から貢進せられてゐる(続紀)のを見ても、想像する事は出来ようと思ふ。尚、杉桙別《スギホコワケ》[#(ノ)]命神社・多祁富許都久和気《タケホコツクワケ》[#(
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