。が、幾許とも知れぬ沢山の例を擁しての立言であることを思うて頂きたい。「かに」は、其自身欲する語と、自由な結合を作つて行く筈である一方に、かうした過去の制約に囚はれてゐるのであつた。
つまりは、語句・詞章及び其技巧の変化は、歴史の徐々たる「にじり歩み」であつたからである。又譬へば、「可消《ケヌベク》」にかゝるにしても、「零雪虚空《フルユキノソラニ》」「天きらし零来雪之《フリクルユキノ》」「豊国之木綿山雪之《トヨクニノユフヤマユキノ》」と言つた風に、重くるしい修辞を整へること、「佐保山に立つあま霧の」の場合と同じ事である。
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朝露に咲きすさびたる「鴨頭草之日斜共可消《ツキクサノヒタクル(?)ナベニケヌベク》」思ほゆ(同巻十)
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これなどは、殊に前述の心理過程を示したものと言へよう。「露」と「消ぬかに」「消ぬべく」との古い関係が低意識の間に隠見する訣なのである。表面に、鴨頭草の消ぬべき様を、自らの心の譬喩としたのである。其は一方、此花の「うつろひ」易き事を、知り悉《つく》してゐる心の一展開であつた。さうして更に、新しい技巧は、「日斜共」と言ふ説
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