な処だが、訣らない。「何せむに」と見るならば、「七種の宝も我には何しに宝ならむや。わが中の宝といふは、白玉のわが子古日なり」と説くべきであらう。
ともかくも、「白珠も、黄金も、珠も、宝なりと謂はるれど、何しに子にまされる[#「まされる」に傍点]宝ぞ。豈子に次《シ》かめや」と言ふのである。かうして、此二つを並べて見ると、長歌の方は、叙述部に当るものを、ふるひ落して意の通じるものとして居り、短歌の方は、古風を残して居て、更に、次代の合理解に移る過程を示してゐるではないか。
「まされる宝」は、「子に次かめやも」の、全然独立した詞句とは関係のない様に見えるが、今一段にして「まされる宝、子に……」と謂つた風に気分的に接続しかけて居たゞらうと言ふ事も考へられる。「まされる宝」のまされるは当然、この句が上につくべきを示してゐるのだが、条件文の呼応は、呼応そのものゝ責任感だけを長く存して居て、実際の論理的職分は忘れて了ふのである。だから、第二の解釈の様な「まされる宝、子に……」と続けて考へられるのも、無理はない訣である。
後期王朝の物語日記の文章には、更にかうした事が多く見られる。「あはれ」と言ふ語は
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