だけでも、妾の話によくのつてくれ。此頃一日々々愈、心が憂鬱になつて行くのを覚えてゐる。
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「このごろ」についてゐるのを見ても、「うたてこのごろ……下心ぐし・見まくぞほしき・恋ひの繁しも」と言ふ風に続いてゐるのが、句の転倒するものゝ多い所から、「うたて」が叙述語の様に感じられて来るのだ。かうした形が進むと、次第に「うたて」が叙述部を代表する様になる。先に述べた平安朝の副詞と叙述語との関係を省みるべきである。
「うたて」の叙述語に当るものが、常に略せられて、「うたて」自身が、叙述部に這入つて来る様になる。すると、そこに仮りに、叙述語に代るべき代用語として常に用ゐられた「あり」が這入つて来る。即、「うたてあり」が、是である。さうして、此語は、既に「うたて、憂鬱なり[#「憂鬱なり」に傍点]」など言ふ内容を持つて居たのである。
宣長が古事記の「……登許曾、我那勢之命為如此登詔雖直、猶其悪態不止而転」を「……とこそ、あがなせのみことかくしつらめ、とのりなほしたまへども、なほ、そのあしきさまやまずて、うたてあり」と古訓したのは、時代を錯誤した様に思はれる。文章としては劣つてゐようが、「そのあしきさまやまずて、うたてけに、天照大神……」と続いて行くのではないか。「うたてあり」に遅れて出たのは、「うたてく」といふ形で、かうして近代になると、「うたてし」「うたてき」又、「うたてい」なども、使はれ出した。
愈益など言ふ意義が、非常にと謂つた意義から、叙述語に没入して、憂愁を表す語となつて、遂には其自身その用語例にのみ在る語の様に考へられ、又擬活用を生じ、更に純然たる形容詞のやうな姿をとる事になつたのだ。
八
――袖も照るかに
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まきもくの 穴師の山の山びとゝ 人も見るかに、山かづらせよ(古今巻二十)
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私は、何を言はうとしたのかを、今述べねばならぬことになつた。何よりもまづ、文法意識の推移と言ふ事に注意を向けて貰ひたい点に、目的があつたのだ。さう言ふ立ち場においてのみ、文法と国語との、自由な関係が見られるので、此をちつとでも固定させては、もう論理的遊戯に陥る事を述べたかつたのだ。
だが、当面の例題として、私の採つたものは、過去の日本語が、今日の国語においては、無用と思はれる様な表情法の幾つかを持つて居たと言ふ点を説く事に進んだのである。さうして呼応と言ふ習慣が、どう言ふ意義を、国語発達史の上に持つて出て来たのか、其と同じく、条件文省略が、其気分的欠陥を補ふ為に、幾度も敷衍を重ねて行く事を述べた。畢竟国語における副詞句の発達は、古ければ古いほど、文章的であつた。さうして、其が固定に固定を重ねて単純な所謂単語としての副詞を用ゐる様になつた。さうした事が、可なり早くから進んだ文献を持つた民族の言語的遺産の上にも、窺ふ事が出来る、と言ふ事を示したかつたのである。
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……その波のいやしく/\に、わぎも子に恋ひつゝ来れば、あごの海の荒磯の上に、浜菜つむ海部処女《アマヲトメ》等が、纓有領巾文光蟹《ウナゲルヒレモテルカニ》、手に纏《マ》ける玉もゆらゝに、白栲の袖ふる見えつ。あひ思ふらしも(万葉巻十三)
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決して、単に纓有領巾文だけを照るかにで受けたものではなかつた。尠くとも、あごの海以下の句は、最初は詞章を構成する筈であつたのが、卒然として、「かに」によつて、副詞句化せられたのである。かうした長い副詞句が、元は文章であり、又、其が為に、文章的でなければならなかつた為の条件法を具へた副詞句が、次第に単純化せられて行つた。さうして「けなばけぬかに」が新しい発想法の上から「けなばけぬべく」と直り、更に「けぬべく」だけで訣る様になり、愈端的に、「露霜の」など言ふ所謂序歌的なものを全然ふり落す様になる、さうした径路は、まだ実は半分しか辿りきれて居ないのであつた。
こんな処で、一言するのは、大方のお心を混乱させる事になるだらうと思ふが、此だけは申し添へて、言ひ残した部分の註釈にもと考へる。かに[#「かに」に傍点]の「か」は、実は、所謂形容詞語根につく「み」「け」「さ」の「け」で、事実、「げ」でなかつたのである。同時に、「しづか」「かこか」「たしか」などの「か」でもあつた事である。さうして、さうした固定した附属辞のやうな形式化は可なり進んでからの事だと信じてゐる。
而も、此等は偶《たまたま》古代的詞章の、片影の固定したものを包含した、其さへも古い時代のものゝ中に見られるのである。殆全部が、新しくなつた中に、ほんの少し俤を止めたもの、と言ふに過ぎない。だから、我々は、その文法的職分を説くに十分な材料を持たなかつた訣であるのだ。だが、かうし
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