行つたのであるが、更に狂言の方にはあど[#「あど」に傍線]といふものが生れた。あど[#「あど」に傍線]は大鏡にも「あどうつめりし」などゝある様に、あいの手をうつこと、相手方となり動作を示すもので、やはり説明役の一種である。
此あど[#「あど」に傍線]と同じ意味から出たものに、能楽のあい[#「あい」に傍線]がある。此も脇方から出たもので、をかし[#「をかし」に傍線]・狂言に似たものではあるが、多少役どころが違ふ。前して[#「前して」に傍線]が中入りをした後で、間語《アヒガタ》りと言ふ事をする。其があい[#「あい」に傍線]である。だからあい[#「あい」に傍線]とは、間の繋ぎをするからの名称と考へてゐる人もある様だが、其は誤りである。あい[#「あい」に傍線]の職分を分解して行くと、能楽の根本組織を理会する事が出来る。のみならず、古代の文学を生み出して行つた、芸能の基礎的事実に触れる事にもなるのである。

     五 副演出を必要とした訣

昨春、旧正月の十八日に、遠州の山奥、水窪町を訪ねて、西浦《ニシウレ》所能の田楽祭りを見学した。田楽とは言うても、編木《ビンザヽラ》を使ふことも、舞ふことも忘れて了ひ、高足をさへ忘れかけて、手に持つて歩くほどのものであつたが、田楽能だけは覚えてゐた。此点で極めて、古色蒼然たる感じを与へたが、とりわけ暗示に富んでゐると思つたのは、番毎に「もどきの手」と言ふことがくり返されてゐる事であつた。まじめな一番がすむと、装束や持ち物など稍、くづれた風で出て来て、前の舞ひを極めて早間にくり返し、おどけぶりを変へて、引き上げるのである。我々は此を見て、日本の芸能が、おなじ一つのことを説明するのに、いろ/\と異つた形であらはし、漸層的におなじことを幾つも重ねて来た事実を、よく感じることが出来たのであつた。
併し、かうした事のくり返されるのは、何故であつたらうか。根本は、日本の宗教が極めて象徴的なものである為に、其を説明するのに、いろ/\と具体的な形で示す事が必要であつた。さうしてそれには、いろ/\な現し方があつた。いろ/\な現し方で、一つの事を説明して行く中に、姿・形が変ると同時に、だん/\大きく育つても行つたのである。そこに、日本の演芸の発達があつたので、主たる一人が発言し、動作したことを、いろ/\な方法で説明して行つた。要するに、日本の芸術はその発生
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