ワザ》様のものとだけが、記憶せられる様になつたけれども、田楽での主なるものは、田楽能だつたのである。さうして、此わき[#「わき」に傍線]芸を勤めたものが猿楽であつた。
かうして、もと、田楽のわき[#「わき」に傍線]芸だつた猿楽は、だん/\それの面白い部分だけを吸収して行つて、やがて自立する様になつた。田楽が舞ふことゝ、軽業・奇術様のものとだけになつたのは、此猿楽との分離による残滓と見られるのである。
わき[#「わき」に傍線]芸は同時に、二つの意味を兼ねてゐる。まじめ[#「まじめ」に傍点]なものに対するおどけ[#「おどけ」に傍点]で、おどけ[#「おどけ」に傍点]の方は、狂言・をかし[#「をかし」に傍線]となつて行つたのであるが、能楽の本芸となつてゐる脇方能は、至極まじめな正式なものである。
わき[#「わき」に傍線]と言ふ言葉は、脇腹から出てゐるものゝ様に考へた人もあつたが、さうならば、二人の対立が必要である。此言葉は、本来は日本の神事から出てゐる。巫女で言ふなら、一人の兄媛《エヒメ》に幾人もの弟媛《オトヒメ》がある様に、随伴者の意味もあるが、ほんとうは若いと言ふ言葉から出てゐる。即、わく[#「わく」に傍線]といふ古動詞から出てゐるので、わか[#「わか」に傍線]・わき[#「わき」に傍線]おなじなのである。さうして、此から控へ役・神聖な役を勤めるものなどの観念が、生れもしたのであつた。

     四 能楽の根本組織

日本古代の神事演芸は、神と精霊との対立に、其単位があつた。して[#「して」に傍線]対わき[#「わき」に傍線]は、其から出来たのであるが、能楽の本領は、其わき[#「わき」に傍線]方にある。小寺さんが、能楽の根本は脇能にある、と言はれたのに符合する訣であるが、此わき[#「わき」に傍線]が醇化して行くと、わき[#「わき」に傍線]方からして[#「して」に傍線]方を生み出す。わき芸其ものゝ中にして[#「して」に傍線]方を生じる。此は、わき[#「わき」に傍線]芸が本芸のやうな形をとつて、発達したからである。幸若などでは、して[#「して」に傍線]が一人でない。
かやうな訣で、わき[#「わき」に傍線]は必しもおどけ[#「おどけ」に傍点]役を意味してゐるものではないが、此が分化したものになると、極めて自由なものになる。をかし[#「をかし」に傍線]・狂言はかうして、能と岐れて
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