事になつて居るのに、文献では、たつた一つしか例がないのだ。神武紀に書き残された、椎根津彦《シヒネツヒコ》と弟猾《オトウカシ》との二人が、香具山の埴《ハニツチ》を大和の代表物《モノザネ》として、呪する為にとりに行つた話に、其が見られる。椎根津彦は、簑笠を着て翁になり、弟猾は、箕を被つて媼に扮《ヤツ》し、敵中を抜けて、使命を果したとする。従来、弟猾は男の様に考へられて来たが、此は女性の神巫《ミコ》だつたのである。兄が君主で、妹が最高の神巫である場合が多かつた。昔から、此二人が村々を訪問した。其が長い後まで、農村に伝承せられて、遂に尉と姥との形にまで変つて残つたのである。
田遊びの行事は、この翁媼の二人が、中心となつて行はれる。代かき[#「代かき」に傍点]の真似をする。雪をならして、松葉を植ゑる。処によつては、「もう穂が出た」などゝ、褒め言葉を言ふ。かうして刈り入れまでの所作の演ぜられるのがほんとうなのだが、其一部だけを行うても、効果はあると信じた。
此春田打ちは、田の精霊を鎮める為に行うた。其鎮魂術の舞踊が、後世に残り、五月、早苗を植ゑる時に、もう一度、これを行うた。もう一度翁が出て来て、踏み鎮めの舞ひを舞うた――或は、踊りを踊つた。翁に対して、田主《タアルジ》――太郎次などゝ変りもした――が出る。此を田の持ち主と解釈する人もあるが、実は、田の精霊を象形《カタド》つたものだと思ふ。この二人が中心となつて、いろ/\な行事を行うたのだが、その中に、此が段々芸能化されて、田楽が出来た。勿論、田楽が出来たには、他にいろ/\な原因があるので、此が直接に、変化したのだとは言はれない。
地方を歩いて見ると、田楽と称するものにも、いろ/\なものがある。円陣を作り、編木《サヽラ》を用ゐるのがある。竹馬に乗つたり、曲芸の様な事をしたりするのがある。又、田楽能を主にして居る処もある。此中、どれが田楽であるかなどゝは、容易に言へない。田楽と称せられるものを、かなりあちらこちら見て歩いたが、要するに、平安朝の末から、鎌倉・室町へかけて、段々内容のふえて来たものゝ、其中の一部分だけを行つて居るので、決して、円陣を作つて、編木を用ゐるものだけが田楽である、などゝは言はれないと思ふ。さう信じなければ、地方の総てのものが、解決出来ない。田楽の出来たには、沢山の原因があるのだが、先、田※[#「にんべん+舞
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