序問題について注意を促すほど著しいものと思はれないだらう。とりみる[#「とりみる」に傍線]とみとる[#「みとる」に傍線]との間に、普通の人は、それほど感覚的な差異を感じないであらう。が、訣り易く言へば、万葉と新古今との用語ほどの相違はあるのである。少くとも、歌で言へば、古今集といふ溝渠を隔てゝ対ひあつてゐる語のやうな気がする。此はわかり易い比喩で、三つの歌集が、適切に事実を示してゐるのではない。

   第二部 日本語としての沖縄語

私のこの論述は、単に日本と沖縄との言語の親縁関係ばかりを説く為の計画から発足したものではなかつた。多くの学者によつて、いまだに明らかに認められてゐない、日本語における古い別殊の語序が、曾て存在した事が事実であり、その印象が、今日尚近代語的な感覚を持つ文章語の上に見られることを言ひ、さうした事実が、同族言語の中で、どの方面へ最有力に関聯性を著しく見せてゐるか、さうしたことが見たかつた。之を逆語序の事実の上において見ることが一等有効ではなからうかと思つた為である。
日本語との本末関係は固より、その後度々方言としてとり入れた為の複雑な混淆状態を経て来た沖縄語と
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