きてゐる神の精髄、神主は主神《シユジン》といふことになる。神主をさすことの多くて、之を神髄なる神といふ風に解してもよい訣だ。即、祭られるべき神髄になるものを持つてゐるものを意味する語である。たとへば実身(サネミ)といふ風に逆に言つても、身の心《シン》と言ふのと同じである。神主も又神人の主体又は神々の主《ヌシ》といふことになつてゐるから並べて考へてよい訣だ。漠たる表象に、偏向あらせられる所から、意義も固定するので、中には浮動したまゝと謂ふやうなものがある。表象を追求する心が、半ば以上言語発想当初の意想よりも発育したものにする。
心《シン》になるものを考へる。其が、神自体であつても、神以外のものであつても、さうした点に、深い顧慮のない所から出発して、その語の宿命的な意義が定まる。だから、「神ざね」は神であるか、神主であるか、どちらにも考へ得る所があり、神道が儀礼化すると共に、人神信仰が強くなると、神実即神主の方に重くなる。而も、正確にはやはり動揺してゐるといふ外はない。
身のさね[#「身のさね」に傍線]と言つても、実《サネ》なる身と言つても、固定以前にはどちらでも理会出来る筈であつた。其が
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