る。語原説が完成しなければ、学説として確かなものには見なされない。
もがり[#「もがり」に傍線]説よりも、肌赤説の方が、直観的に真実らしい気はする。この場合にも、赤裸(アカハダカ)と言ふやうな形で、古い印象を呼び返さうとする、重言のやうな現象が出て来るのは、注意すべきことである。語序転換には、重言過程を経てゐるとも言へるし、日本における重言の成立には、語序の変化が原因となつてゐる点があると見ねばならぬ。
私は、日本の国の文献の辿ることの出来る限りの最古の時代に溯る前に、まづ、平安朝式の語感を持つた語を検査した。今はまう少し進んで、日本語として最古い時期の古語においては、どんな姿をとつてゐたかを見ようと思ふ。

     六 「さね」と言ふ語及びぬし[#「ぬし」に傍線]

神主・神実といふ語は一括して説いてよい。むざね[#「むざね」に傍線]と言ふのは、語原的には身実《ムサネ》・身真《ムサネ》など宛てゝよい語で、心《シン》になつてゐるからだ・からだの心《シン》などと訳してよいだらう。正身《シヤウミ》・本体など言へば、近代的にもわかる。神実《カムザネ》・神主など言ふ語も、神の中心的な存在・生
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