まい。出雲人の移動して住みついた地をさすものと思はれる。此処の恵我市と相叶ふ出雲は、恵賀に近い土師郷附近である。此は出雲宿禰から分れた土師宿禰の根拠地である。此外にも、姓氏録には、河内の出雲宿禰姓が記録せられてゐる。土師・恵我は同郡、隣郡古市郡には、又恵我古市がある。何にしても此は、新室の寿詞の、河内に行はれてゐたものゝ形である。さうして、出雲恵我を言うた理由は、恐らく偶然ではなからう。出雲人の中、建築に交渉の多い者のあつたことは、すさのを[#「すさのを」に傍線]の命の出雲八重垣の歌、大国主のたぎしの小浜の火|燧《キ》りの呪詞、播磨風土記の出雲墓屋《イヅモハカヤ》の条、引いては出雲人で河内に移住し、土師氏の祖先となつた野見宿禰の陵墓に関する伝承等が示してゐる。墓屋や陵墓の築造は、昔は、建築事業になつてゐた。出雲建築が、古代文化の上に著れて居た時代があるのである。出雲人の建築法と、新室営造との関係はわかつても、之が両天子に持つた交渉は、知ることが出来ぬ。たゞ今の間は、河内人の間に行はれてゐた新室の寿詞が、何かの機会に、久米若子の伝承にとり入れられたものと見ておく外はないと思ふ。

   
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