「やく」に傍線]といふ用語例をも持つてゐたのである。即、やき媛、くすべ媛と言ふ、嫉みの女性なることを示す名であつた。まことに黄泉の国から、伴ひ帰つた女神だけに、嫉妬の感情までも、其国から携へ来つたものと考へられてゐたのである。我が古代人も亦、嫉妬を冥府の所産と信じてゐたことが、知られるではないか。
磐姫|嫉妬《ウハナリネタミ》の記述は、記紀いづれにもあるが、国語の表現に近寄つてゐるだけに、古事記の方が感じも深く、表現も行きとゞいて居り、古代人の官能まで、直に肌や毛孔から通ふやうに覚えるのである。語部《カタリベ》の物語――其は葛城部《カツラギベ》の伝承と名づくべきもので、記紀の此記述の根本となつてゐるものであらう――があつたとすれば、どれほど人生を美しく又|饒《ユタ》けく感ぜしめることであつたらうと、其飜文した古事記高津宮の、かの条から感銘を受けるのである。まことに、暢やかな長篇の叙事詩を見る心持ちを覚えるのは、私だけのことではあるまい。
甘美な叙事詩「天田振」が、文学以前にあつたことすら、我々にとつては大きな事柄である。其上、祖先の人々は、この辛くして舌に沁む美しさを湛へた志都歌《シヅウタ》の返《カヘシ》歌――葛城部の物語歌――を遺したのである。
「志都歌の返歌《カヘシウタ》」といふ名で、六首の歌が、宮廷の大歌所に古くから伝誦せられてゐた。さうして其一つ/\に古事記にある来歴が、順を追つて語られてゐたのであらう。その「志都歌之返歌」は、母胎として葛城部の物語を持つたことは、此後に述べる「叙事詩と名代部《ナシロベ》」に絡んだ推測を予《あらかじ》めすゝめて置く。
宮廷詩の意義
古歌即、宮廷詩は、その来歴や、其歌詞をとつて名づけたものもあるが、其てくにく[#「てくにく」に傍線]による所の分類が多い。さうして後になる程、其々の部類――区画――に、新歌詞をとり入れた。本歌の外に、替へ歌が幾つとなく出来て来る訳だ。だから、記紀に伝はる其出来た場合の伝へや、其|主題《テマ》の傾向や、或は単にその名物などから、其々の歌のほんたうの来歴や、用途や性質は訣らない。まして大歌の末期とも言ふべき平安朝の状態によつてする、一切の判断などは、悉く無意味である。
静歌《シヅウタ》だとか、賤歌《シヅウタ》とか――一々理由は今説かぬが――直観式な解釈を語原に加へて見たところで、為方はない。大歌のすべてに共通した目的なる鎮魂呪術の印象を、――其が漸く忘れられて来た後までも、最著しく而も、後代的に変化した意味で――持つてゐたのが、志都[#「志都」に傍点]歌である。鎮魂信仰については長い説明を要するが、威力ある外来魂を、体内に安定する義(第一)、此方は、字は鎮魂であるが、語は古くはたまふり[#「たまふり」に傍点]と言つてゐる。
又、興奮によつて遊離する魂を鎮定する義(第二)以下、いろ/\の考へ方が生じて来たが、普通は、唯無意識に、不可抗的に遊離する魂が、体外に於て、他の危険な魂に行き触れるのを避ける為に、魂を呼び返し、体内に固着せしめると言つた呪術を、鎮魂法と考へてゐるのである。最古いのは、第一だが、第二義も亦早くから、信じられてゐたらしい。其は多く、怒りとなつて現れる。魂の遊離によつて、極度な憤怒を発する。其魂を体内に請《コ》ひ返して鎮めると、怒りは釈《ト》けるものと信じてゐた。憤怒の最素朴に発し、また鎮静した伝へは、雄略天皇に多かつた。采女《ウネメ》や舎人《トネリ》を殺さうとせられた怒りが、歌を聴いて、即座に之を赦す心に迫られたと言ふ類の伝へ、其から秦酒公《ハダノサケキミ》の琴歌によつて、闘鶏御田《ツゲノミダ》を免されたこと、木工|猪名部真根《ヰナベノマネ》の刑死する時、真根の友匠《ナカマ》の惜んで歌つた歌によつて命を助けられたことなど、歌もて怒りの魂を鎮めた伝への多かつたことが訣る。恐らく人の怒り哮《タケ》つた時、之を鎮める為に歌つた呪歌を、凡ゆるこの長谷《ハツセ》天皇の故事に基くものと伝へるやうになつたのであらう。其ほど又直に怒り、直に和む、古代人らしい心うつくしい、天子として伝へたのである。だから霊魂の怒りについて、尚此天皇の関聯を説く伝へが、令集解「葬喪令」の遊部《アソブベ》の項の古註にも見えるのである。長谷天皇崩じて後、殯宮における御むくろに鬚毛長く伸びるまで、御魂しづまることなく荒《アラ》びられたことを記してゐる。之を鎮めたことを以て、遊部《アソブベ》の職の起原を説いたのだ。霊魂の遊離発動が、怒りの原因となること、固よりである。死後にもかうして、怒りがあるとした。此らの怒りを鎮めた事の伝へから、男性の怒りに関することは、長谷天皇に仮託して言ふやうになつた。
志都歌の「しづ」は、第二義における鎮魂呪術に関して言ふのである。第一義の鎮魂は
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