、「ふり」である。雄略朝の歌として伝るものは、概ね「志都歌」と言ふべきものなのだらうが、其中、古くて名高いものは、名高いだけに、各早く別々に独立した。天語《アマガタリ》歌などは最著しい鎮魂の来由を持つたものであるが、「志都歌」から出て、別の歌群を形づくつた訣である。さうして、「志都歌」と称せられるものとして、穏かな詞章だけが残つた訳である。だが、一方の「志都歌の返歌《カヘシウタ》」――此は、歌返《ウタガヘシ》だとする説もある――の方は、まだ名義がはつきりしてゐる。其程、鎮魂の意味をはつきり持つてゐるのだ。

      怒りと鎮魂と

古代の皇后は、その常に、聖事として、清き水と、清き水を以て天子の大御身を清める行事と、清き水の聖事をとり行ふ時の採《ト》り物《モノ》に関することは、躬らお行ひにならねばならなかつた。葛城部の伝承の主人公なる貴い女性は、採り物の一種、酒杯用の御綱柏《ミツナガシハ》を紀伊の国にとりにおいでになつた。其間に、後妻《ウハナリ》として八田若郎女《ヤタノワキイラツメ》を宮廷に召された。帰途、海上で其噂を聞いて、御綱柏を海に投げ入れ、御舟は高津宮の下を通り過ぎて、淀川を溯つて山代川(木津川)から綴喜の地に上られた。其から、故郷大和国葛城を望む為に、奈良山の登り口まで行つて引き返されたが、綴喜の韓種帰化人の豪族の家に滞在せられたと言ふ風聞に、高津宮の帝は、舎人|鳥山《トリヤマ》を迎へに遣された。
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山背《ヤマシロ》にい及《シ》け 鳥山。い及《シ》けい及《シ》け。わが愛妻《ハシヅマ》に い頻《シキ》逢はむかも
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又ひき続いて、丸邇臣口子《ワニノオミクチコ》を迎へにやられた。其に託せられた御歌、
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みもろの其高きなる おほゐこが原。』
大猪子《オホヰコ》が腹に在る きもむかふ心をだにか、相思はずあらむ
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も一つ、
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つぎねふ山背女《ヤマシロメ》の 小鍬《コクハ》持ちうちし大根《オホネ》。』
根白《ネジロ》の白臂枕《シロタヾムキマ》かず来《ケ》ばこそ知らずとも言はめ
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そこで、綴喜の宮に参つた口子《クチコ》、この歌を申し上げる際、どしや降りの雨が来た。雨にうたれ乍ら、御殿の前の戸に参りて平伏すると、やり違ひに後の戸に出られ、御殿のうしろ戸へ参つて平伏すると、引きはづして御殿の前戸にお出になる。山背川の川原にあつた御殿のことゝて、水層が増して来た。匍《ハラバ》ひながらお庭に平伏してゐる時、水は段々川を氾えて其腰のあたりにとゞいた。口子の臣は、その時、青摺衣《アヲズリゴロモ》を著て、紅の上紐《ウハヒモ》をひらつかせて居た。紅の紐に水が達《ツ》いて、色がおりる。青摺りが、すつかり真赤になつた。口子臣の妹の口比売《クチヒメ》、皇后のお供として、この宮に居た。其で、口比売のうたうた歌、
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山背の綴喜の宮に もの請《マヲ》す。わが兄《セ》の君は、涙含《ナミダグ》ましも――紀、わが兄を見れば――
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皇后が、さう言ふ歌を作つたわけをお問ひなされた時に、私の兄、口子臣でございますと申しあげた。――古事記
さて、口子臣、其からその女兄弟、其に宿主ぬりのみ[#「ぬりのみ」に傍線]、三人によつて考へを出し、天子に奏しあげさせた口状《コウジヤウ》は、皇后のいらつしやつた訣は、ぬりのみ[#「ぬりのみ」に傍線]の飼うてゐる虫の中に、ある時は這ひ虫になり、ある時は卵になり、ある時は鳥になり、三とほりに変る不思議な虫が居ります。この虫を御覧になつて入らつしやつたのです。よくない心は全然おありになりません。かう申しあげたら、天子様が、さうか、そんならおれも不思議と思ふから、見に出かけよう、とおつしやつて、宮廷から淀川を溯つてお出でになつた。ぬりのみ[#「ぬりのみ」に傍線]の家にお著きになつた際、其ぬりのみ[#「ぬりのみ」に傍線]自分の飼つてる三通りの虫を、皇后にさしあげた。さて、天子は、皇后のいらつしやる御殿の方にお立ちなされて、おうたひなされたのは、
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つぎねふ山背女《ヤマシロメ》の 小鍬持ちうちし大根。
爽快《サワサワ》に汝《ナ》が言《イ》へせこそ、うちわたすやがはえなす[#「やがはえなす」に傍点]、来入《キイ》り参来《マヰク》れ
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この天子と、皇后とのお歌ひなされた六つの歌は、志都歌の返歌――又、歌返しである。
この外にも、まう一首、おなじ仁徳記に、志都歌の返歌が伝つてゐる。
古事記の順序で見ると、此で、皇后の御心が鎮ることになつてゐるらしいのである。其後に、皇后宮廷の饗宴に参上した氏々の女たちに、柏をとつて、御酒を賜ふ
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