どにも、怖しい暗示がある。日本では、主上に教育申し上げる事は出来ないが、主上は詞を覚え、或は、聴かなければならなかつた。其によつて教育されると同じく、主上に他の魂、教育的なまなあ[#「まなあ」に傍線](外来魂)が憑いた。飛鳥朝の末頃から、儒学による帝王・王氏の教育は始まつたと言うてよい。其国語の詞章について行はれたのは、平安朝にはじまると言つてよい。此二つの教育法が、源[#(ノ)]順の倭名抄、源[#(ノ)]為憲の口遊《クイウ》と云ふ様な種類のものを生じたわけだ。同時に女の方を見ても、清少納言の枕草子などは、偶然一つだけ出来たのではなく、同種のものが沢山あつたのだ。覚えなければならない語を――此頃になると、歌・諺以外にも、単語などを含む様になつた――授ける事に努めた。物語を読んで聴かせることも、手習ひさせる事も、皆さうした教育法なのだ。詞を書いて其を読ませ、絵解きをすることも、同じ理由から出て拡つて来たもの、と考へてよい。此処では便宜上、平安朝から溯つて云うて見たい。
一番気をひく事は、難波津・安積山の歌などが、手習ひに使はれた上に、現に曾根好忠などの集には、其が更に展開してゐる。一体手習ひといふと、左右の手を考へるが、此「て」には、一種の意味があるのだらう。われ/\は書法の手を考へるが、音楽・舞踊の方でも手と云ふ語を盛んに用ゐてゐる。つまり、一種の魂に関係のある語で、魂が身に寓ると、其によつて身体の一部分の働き出すことが、「て」であり、其現れる部分を手と考へたらしい。さうして、其を完成する為に、習熟することが、ならふ[#「ならふ」に傍線]なのだ。手を習ふと同時に、読むのを聴き、自分も読む。此三方面から自分の魂を風化する事に勉めた。宮廷の女房たちは、采女の中実際の神事から遠のいて、神人に入らせられる主上並びに其外の方々の後見をした者が多いのだ。此等の人々の為事が、平安朝の文学を育てる原動力となつたのだ。所謂王氏・貴族の人として、知らなければならない事柄を教へるところに目的がある。これを昔風に云へば、さう云ふ知識を持つ事によつて、其人の位置を保ち、実力を発揮すると考へてゐたのだ。だから、平安朝になつても、国々に伝つてゐた風俗歌《クニブリ》・諺或は、其系統の成句を教育の主題にしてゐた。此等の女性は、外にまだいろ/\な為事をしてゐる。後世まで関係のある事で云へば、日記を書き、其中に歌・物語をも記しつけた。尚古くから引き継いだ為事で、此期に残つたものは、其等の女性は主上の御詞を其儘記録して、半公式に発布してゐる事だ。此は、古代に於ける宮廷の女官の職分を明らかに示してゐることである。此点から見れば、主上並びに大貴族には、その成長後も尚、巫女の資格から出て、後世の所謂女房になつて行くものが附いてゐて、詞を伝達即、みこともち[#「みこともち」に傍線]したのだ。女性の口及び手を経て宮廷の宣命の類が発布せられたのが、古風に違ひない。其が段々変化して、太政官其他の手を経るのが公式だ、と考へられて来た。而も其上に、一番簡単な古い形までが、後まで残つてゐたのである。
一体、呪詞の数は元極めて少なかつたと云ふ事は述べたが、世の進むにつれ、特殊な事情が恒例の儀式の上にも起つて来るし、まして臨時には、いろんな事が起つて来る。かうして、呪詞が次第に増して行く。其を主上が御出しになる場合に、みこともつ[#「みこともつ」に傍線]役は、第一義としては女であつた。後には様式変化して、文字で筆記する事になつて来、更に主上の旨を受けて、文章までも女房が作る様になつて来る。かうなつて来る径路には、常におなじ詞のくり返しをしてゐた時代の連続を考へねばならない。唯、外に対しての大きなみこと[#「みこと」に傍点]を持つ[#「持つ」に傍点]者は、男でなければならなかつたのだ。だが、其外に神代以来の儀式だと云ふ考へから、どうしても主上御躬ら仰せられねばならぬ詞がある。此方は、簡単になつて来る。此点から見ると、此章の初めに援用した女帝と志斐嫗とのかけあひの歌も、さうした女の、幼少から御成人後までおつきしてゐた事を示す様である。語部自身の詞章のうちに、呪詞も歌も諺も籠つてゐた事が考へられる。譬へば、出雲風土記にある語[#(ノ)]臣猪麻呂が、自分の娘を鰐に獲られた事に就いて、天神に祈つた事件を見れば、疑ひもなく、此は、出雲の語[#(ノ)]臣の間に伝つてゐた一種の呪詞が、段々叙事詩化して来る径路に出来たものだ、と見ることが出来る。唯、言ひ添へて置かねばならぬ事は、宮廷の組織は、旧日本の多くの邑落の儀礼と大分特殊な処がある。宮廷の習俗を以て、旧日本全体と考へるといふのは、無理である。一例を挙げれば、宮廷以外では、才の男は、多く人形であるのに、宮廷では、人間を用ゐてゐる。と同時に、語部の如きも、前に述べた様に女性を主とするのは、宮廷が最甚しいものと見えるのである。
語部の伝へてゐた呪詞系統の文学は、主上其他に段々伝へられて来る。其間に次第に歴史的内容を持つて来、過去の事実だと云ふ反省を交へて来る。すると其処に、時間的の錯誤が起つて来る。過去の事だと知り乍ら、現在の事だと感じる矛盾が、日本文学に沢山ある。其ほど時代錯誤を平然と認容してゐるのが、日本文学だ。それと同時に、日本の文学の特徴――誇るべき特徴ではないが――歴史的に意義あるものは、地理錯誤である。此亦、盛んに行はれてゐる。宮廷で唱へられた呪詞を、みこともち[#「みこともち」に傍線]が地方へみこともつ[#「みこともつ」に傍線]て行つても、同じ効果が生ずる故に、其土地が初めて宣下せられた地と感じられる。さうした錯誤の第一義的なのは、日の御子のみこともたれた[#「みこともたれた」に傍点]詞章に依つて、天上・地上一つと信仰した所から起る。地上の事物に、天《アマ》・天《アマ》つ・天《アメ》のなど言ふ修飾を加へたのが、其だ。日本古代の文学を見るには、みこともち[#「みこともち」に傍線]の思想及び時代並びに地理の超越、この三つの点を考へる事が、大切である。
扨、古代に溯るほど、主上は呪詞其他の伝承古辞を暗誦して居なければならなかつた。主上が神人であると共に、神である為だ。此主上の仰せられること並びに、其をみこともつ[#「みこともつ」に傍点]伝宣者の詞の長かつたのが、逆になつて、其を受ける側、即、奏上者或は服従者の詞の方が延長せられて来る。其理由は、服従者の詞の中に、主上の詞章を含んで繰り返す形になるからだ。其と同時に、服従者自身の祖先、更に近代的に言ひ換へれば、自分達の職業の祖先が、宮廷に奉仕し始めた歴史を長々と語る様になるのである。此が、家々に次第に発達して来る。さうして、儀礼の度毎に、特に輪番で其を繰り返すことになる。此点から見ても、呪詞の歴史が考へられる。主上の宣下せられる詞よりは、臣下が奏上する詞の方が、量に於いて有勢になつて来る。我々の知る事の出来る限りに於いて、延喜式祝詞などは、形は宣下式をもつてゐるものがあるにも拘らず、全体として奏上式な要素を含んでゐるのは、此結果だ。尚此等の事に就いては、最後の章に述べることにするが、此処では巫女の事に就いて簡単に結末をつけて置く。
巫女は、謂はゞみこともち[#「みこともち」に傍線]であるよりも、先に、みこと[#「みこと」に傍線]を絶さない役をしてゐた者だ、と言ふことが出来る。つまり、宮廷以外の邑落に於いては、男の場合に刀禰《トネ》と言つてゐる。其に対して、宮廷ではひめとね[#「ひめとね」に傍線]と称してゐた。命婦に当るものであらう。其が後世になるほど、おとな[#「おとな」に傍線]と云ふ語で表されて来る様になる。

     七 上達部の意義

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故殿のおほん服の頃、六月三十日の御祓へといふ事に、いでさせ給ふべきを、職《シキ》の御曹司は、方《カタ》あしとて、官のつかさの[#「官のつかさの」に白丸傍点]朝所《アイタンドコロ》に渡らせ給へり[#「に渡らせ給へり」に白丸傍点]。……日くれて[#「日くれて」に傍点]、暗まぎれにぞ[#「暗まぎれにぞ」に傍点]、すごしたる人々皆立ちまじりて、右近の陣へ物見に出で来て、たはぶれさわぎ笑ふもあめりしを、かうはせぬことなり。上達部のつき[#「上達部のつき」に白丸傍点](着座)給ひしなどに[#「給ひしなどに」に白丸傍点]、女房どものぼり[#「女房どものぼり」に傍点]、じやう官などのゐる障子を皆うちとほし[#「じやう官などのゐる障子を皆うちとほし」に傍点]そこなひたりなど、苦しがるもあれど、きゝもいれず(枕草子)
[#ここで字下げ終わり]
前に述べた通り、上達部なる語も亦、平安朝に残留してゐたもので、これを以て、奈良朝以前の様子を窺ふことが出来る語なのだ。「かむだち」は言ふまでもなく、神館で、字に書けば、※[#「广+寺」、43−8]が当つてゐる。普通の用例を以て見れば、※[#「广+寺」、43−9]は祭りに与る人の籠る処で、民間で云へば、頭屋《トウヤ》に当る。神となる人達の籠つて、精進すべき処を云ふのだ。平安朝に於いて、かんだちめ[#「かんだちめ」に傍線]と云ふ語は、上達部と云つた字に宛てたゞけの聯想は持つてゐたに違ひないが、古代に於いては、祭時の宮廷を※[#「广+寺」、43−11]と見て、其処に詰めて居る人々だから、上達部と云つたのである。其程宮廷は、年中儀礼が多かつたのだ。後には、上達部の内容が変つて来るが、まづわれ/\の考へでは、上達部が三位以上の公卿を指す、と云ふ様な制限があつたのではなく、もつと広い範囲をさしたもので、其上に、更に、所謂おみ[#「おみ」に傍線]と称するものがあつた。此に対照的なものに、をみ[#「をみ」に傍線]があつた。おみ[#「おみ」に傍線]は大忌(人)で、主上が神となられ、同時に饗応《アルジ》役となられるのに対して、其為事を補佐する位置に立つ為に、禁欲生活をして、宮廷に籠つてゐる。小忌《ヲミ》(人)の方は、ぢかに神事の細部に与る人々で、最物忌みの厳重なものであつた。おみ[#「おみ」に傍線]は所謂臣であるが、此は宮廷に於かせられても、或る点まで其権威を認められた人々である。古代の文学・歴史を考へるのに、唯今の様な状態に臣を考へてゐたのではいけない。此臣は、天子を補佐すると共に、若い日の御子の育ての親となる資格を持つてゐる。其為に、臣たちの間に、勢力争ひが起るので、其汎称としては、臣であるが、骨《カバネ》としては、連であり、宿禰・朝臣でもあるのだ。
此「おみ」たちの家に伝はる古伝の文学がある。其が即、寿詞《ヨゴト》と称するものだ。後世まで考へられた意味では、主上に対して、服従を新に誓ひ、其生命並びに富を寿するものと考へられてゐた。唯、語原に就いては多少不審はあるが、さうしたものを伝へて、家々では天つ祝詞と称した。斎部が、無反省ながら、天つ祝詞と度々称へたのは、さう言ふ処から出たのだ。天つ祝詞は、主上を自家の養ひ君として仕へ奉る時に称へるのが第一義で、其が変化して、食物を献り、酒を薦めて、健康を増進させる為に云ふ古伝の語と云つた意味を第二義としてゐる。即共に、天つ神の寿詞と称してゐる。其外に、幾種類かの寿詞を持つてゐて、此と区別を立てゝ居たに違ひない。唯、学者によつては、対照的に、国つ神の寿詞の存在を説いてゐるけれども、其を信ずべき根拠を見ない。
時にさうした寿詞が、主上の系譜を表す事があつたらしい。つまり、特殊な関係のある臣の家柄と、王氏との系図の交錯を述べた一種の語りごとである。即、此が呪詞類の中の一つの分科をなすものだ。勿論、宮廷にも、かうした口頭伝承の系図のあつた事は信ぜられるが、記・紀・続紀から推測すると、臣下の系譜が宮廷の系譜を整頓する基礎になつた傾きがある様に思はれる。譬へば、出雲人の系譜、又御大葬の際に称へた臣たちの誄詞《シヌビゴト》――これは系譜及び寿詞の様である――から推しても、さうした事が考へられる。つまり、宮廷自身にあつた事が、臣下に移り、臣下に於いて栄えて、更に宮廷に戻ると云ふ、古代信仰の常式
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