をとつたのである。われ/\の国の古伝承によつて、編纂された歴史・記録の類は、主として此寿詞並びに寿詞によつて組織せられた纂記《ツギブミ》から出来てゐると思はれる。尚平たく言へば、寿詞は宮廷に対する奉仕の本縁を説くもの、即、天つ神の寿詞・口誦系図から成つてゐると云ふ事が出来る。
尚一つ閑却出来ないのは、此臣たちは同時に部曲の頭で、伴部の宰《ミコトモチ》であることだ。さすれば、部下に対しては宣詞――宮廷に対しての寿詞なる――を宣する権能を持つてゐた。さうした部分が、一等早く亡びて残らなくなつたものと思ふ。唯、所謂系図に於いて、其が仄かに認められるだけである。と共に、宮廷のみこと[#「みこと」に傍線]を部下に持つ[#「持つ」に傍点]場合を考へると、勿論寿詞ではない。と云つて唯の詔詞でもない。宮廷からは自らお受けして、其を部下に伝へるのだから、特別な形を採らなければならない。此が所謂|鎮護詞《イハヒゴト》である。其意味に於いて、延喜式の祝詞は誤解を重ねて、寿詞《ヨゴト》と称しながら、鎮護詞の形をとり、更に祝詞の中にこめられてゐる。結局古代から近代への過渡時代に、祝詞を錯乱せしめたものは、此鎮護詞であり、此部分が益栄えて行つたものと言へる。
八 宮廷祝詞の概念
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(一)……伊波比《イハヒ》[#(乃)]返事《カヘリゴト》[#(能)]神賀《カムホキ》[#(ノ)]吉詞《ヨゴト》……次《ツギテ》のまゝに、供斎《イハヒゴト》つかへまつりて……天つつぎての神賀《カムホキ》[#(ノ)]吉詞《ヨゴト》まをしたまはくとまをす。(出雲国造神賀詞)
(二)……夕日より朝日照るまで、天都詔刀之太詔刀言《アマツノリトノフトノリトゴト》をもちて宣《ノ》れ。……皇神たちも、千秋五百秋の相嘗に、相うづのひまつり、かきはに、ときはに、斎奉[#(利※[#「低のつくり」、第3水準1−86−47])]……(中臣寿詞)
(三)皇御孫の命の天の御翳・日の御翳とつくりつかへまつれる瑞《ミヅ》のみあらかを、汝屋船《ミマシヤフネ》[#(ノ)]命に天津奇護言《アマツクスシイハヒゴト》[#ここから割り注]古語云、久須志伊波比許登[#ここで割り注終わり]をもちて、言寿《コトホギ》鎮《シヅ》め申さく……(大殿祭祝詞)
[#ここで字下げ終わり]
祝詞の語原は、半ば知れて、半ば訣らないでゐる。其為に、と[#「と」に傍線]に就いては、種々の説がある。けれども、すべて近代の言語情調によつた合理解に過ぎない。所謂「天つ祝詞の太のりと言《ゴト》」と云ふ語を、最本格式な語として追窮して行き度い。と[#「と」に傍線]は、古代信仰に於ける儀礼の様式或は、其設備を意味する語で、結局は座と云ふ事になるらしい。即、天つ祝詞は、神聖な天上界と同じ詔詞を発する聖座の義だ。其場所を更に讃美した語が、太のりと[#「太のりと」に傍線]だ。其処に於いて宣下せられる主上の御言葉が、太のりと言[#「太のりと言」に傍線]である。だから、のりとごと[#「のりとごと」に傍線]はのりと[#「のりと」に傍線]なる語の原形で、と[#「と」に傍線]に言《コト》の聯想が加はつた為に、のりと[#「のりと」に傍線]言《ゴト》の言を略するに至つたものと思ふ。だから、祝詞自身、天子及び天つ神の所属であることは明らかだ。所謂のりと言[#「のりと言」に傍線]を略した祝詞が宣せられる場合は、天下初春となり、同時に天地の太初《ハジメ》に還るのだ。而も、此祝詞の数が次第に殖えて来るにつれて、寿詞・鎮護詞の混乱が盛んになる。だから、延喜式に於いて、かうした所属の別々なものを、一様に祝詞としてゐるのも無理はないが、同時に祝詞其物の歴史から言へば、非常に新しいものと云はねばならない。
扨、かうした祝詞が、次第に其一部を唱へることになり、其が、全体を唱へるのと同一の効果を持つもの、と見做され出して来た。中臣祓の、長くも短くも用ゐられる様なものだ。其は寿詞に於いては諺を生じ、叙事詩に於いては歌を生じて来たのと、同じ理由である。
九 諺及び歌
(一)俗諺曰、筑波峰之会[#(ニ)]、不[#レ]得[#二]娉財[#一]者、児女不[#レ]為矣。(常陸風土記)
(二)風俗諺曰、筑波岳[#(ニ)]黒雲|挂衣袖漬国《カキテコロモデヒヅチノクニ》是矣。(同じく)
斎部祝詞並びに、稀に、中臣祝詞に於いて、天つ祝詞と称するものは、祝詞を口誦する間に、挿入せられて来たものである。其部分にかゝる時には、一種の呪術を行ふことになつてゐたものらしい。だから、非常に神秘な結果を齎す詞として、人に洩らすことが禁じられて居た。本道の意味に於いては、天つ祝詞ではなく、所謂諺と称すべきものであらうと思ふ。其が後には、祝詞を称へなくても、其部分を口誦する事によつて、祝詞全体の効果を持ち来すもの、と考へられる様になつた。此諺が、次第に意味の全く不明な呪術的なものと、社会知識的なものとに岐れて来る。そして、後者は、教訓的な意義を持つて来るが、此は必しも新しい事ではない。而も、さうした諺自身が既に、叙事詩の影響を受けてゐる。言ひ換へれば、其発生した呪詞時代を過ぎて、叙事詩時代に入つても、尚新しく出来るものがあつて、叙事詩の影響を受けたからだと云つてよい程、歴史的の内容を伴うてゐる。或は、更に古く脱落してゐたものに、叙事詩的な背景を附加して来た部分もある様だ。最異風な諺を挙げて見れば、地名・人名に絡んだ枕詞の古形をなすものが其で、昔は国讃美《クニボメ》・人讃美が、呪詞の精髄であつた事を示してゐる。一方、さうした諺から、所謂|謎《ナゾ》が生れて来る。日本文学に於いて、割合にかへりみられてゐないのは、古代に於ける謎の類だ。此は、大方の為に、問題を提供して置きたい。
諺の様式は、大体に偶数句を以て出来たもので、此から言はうとする歌と、大体に違ふ点は、問答唱和風でないことである。さうして、歌は主として、奇数句に傾くことだ。
此小さな論文を以て、私の師匠柳田国男先生の同時に、同じ叢刊の中に発表せられる論文に接続させようと試みたのであるが、其結び玉になるべき歌の事をお話する前に、もう余白が無くなつた。其で、此処には極めて概念的に書き添へておくことに止めたい。
諺の場合と同じく、歌は、呪詞から変化した叙事詩の、最緊密な部分と目せられる部分で、恐らく、古い叙事詩に含まれて居なかつたものが、次第に挿入せられて来たのだらうと思ふ。伝承の都合からして、問答唱和の形を残して居らないものも多いが、実は、さうした形を採らねばならなかつたのである。併し、根本的には、諺の形式の叙事詩の中で発達したものが、歌である。而もさうした要素は、既に呪詞の中にも見えてゐた。所謂天つ祝詞の部分に於いて、発唱者と被唱者との間に問答が行はれた事は、祝詞に於ける所謂、返し祝詞或は覆奏《カヘリマヲシ》の存在によつて知る事が出来る。延喜式の祝詞で見ても、所謂称唯(ヲヽトトナフ)の部分は、やはり此形である。かうして発生したものが、呪詞の叙事詩化して行く道筋に、次第に勢を得、分化して来る。だから、歌をうたふ事に、叙事詩及び呪詞を唱へるのと、同じ効果を予期する事が出来たのだ。其に不安を感じる場合には、其歌の属してゐた叙事詩を口誦すれば、的確に効果の挙るものと思うたこと、早く説いたとほりである。かうしたかけ合ひを以て出発した歌が、かけ合ひに進むと同時に、一人の層畳的発想、即、組歌形式をも採つて行く様になる。併し、歌の独立する径路に就いて、一面の原因ではあるが、最適切なものを挙げる事が出来る。巫覡の神懸りによつてする舞踊は、呪詞或は叙事詩を唱へてゐる間に、舞人自ら其主たる神或は人となつて歌ひ出す。即、一種の詠《エイ》の形をとる事によつて、発達して来る。此は、歌の発生の一部の原因であるが、主としては、歌が出来て後、独立した歌の製作に向ふ動機を、促す理由になつてゐる様である。
◇
日本文学は、少なくとも私の申してゐる時代には、文学ではなかつた。例外なく宗教上の儀礼であつた。異人の詞を伝承すると云ふ意義に於いて、或期間持続せられ、其間に固定し脱落し、変化改造が加つて来た。其上に、歴史意識が加つて、叙事詩が出来、其断片化したものが諺及び歌になり、更に歌の方面に、非常な発達を遂げることになつた。結局最初の文学は、律文であつた。けれども今日の感覚を通して感じる時は、最初は、寧、散文に近いと思はれる呪詞があつた。其が、叙事詩になつて、純粋な律文と称すべきものになつた。呪詞の中に祝詞・寿詞・鎮護詞の区別があり、更に祝詞に対しては、原形に近い宣命が、対立する様になつた。今謂ふ所の祝詞よりは、寧、祝詞らしい要素は、宣命に多く含まれてゐる。
歌に於いては、掛け合ひの形から出発して小長歌になり、其は二部に岐れるところの小長歌の形から、全然変化を重ねて行く。我々が、最初の観察の対象に置くのに便宜な形は、片哥及び旋頭歌であるが、此が直《ただち》に日本の歌の原形だ、と云ふ事は出来ない。
われ/\の文学は、此国土以前からあつたのだから、原始と云ふ語を用ゐるのは、絶対に避けなければならない。長歌が次第に長くなり、これに創作意識が加つて来ると共に、一方声楽上の欲求から、長歌の中に短歌が胚胎せられて来る。其短歌成立の動機は、同時に片哥の中にも、催されてゐた事だ。此最新しく、而も近代に至るまで、わが民族の生活に最叶つてゐる様に見えた短歌が、明らかに形式を意識せられて来たのは、飛鳥末から、藤原へかけてのことらしい。
私の論文に於いて、いま少し力を入れたかつた部分は、文学と、其を伝承し、製作する階級との問題、文学意識並びに鑑賞力の啓発せられて行く過程であつた。だが、今は其だけのゆとりがないのです。
底本:「折口信夫全集 4」中央公論社
1995(平成7)年5月10日初版発行
初出:「岩波講座「日本文学」 第十一輯」
1932(昭和7)年4月
※底本の題名の下に書かれている「昭和七年四月、岩波講座「日本文学」」はファイル末の「初出」欄に移しました
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年8月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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