のだ。
扨《さて》、一方舎人に就いて言へば、此は臨時奉仕の意味をもつた召人《メシウド》である。原則的には、任期満了後其本貫に帰り、或は宮廷の指令によつて、他郷に赴くこともあつた。さうして、大舎人部なる部曲を各地に残した。概して云へば、大舎人部は日祀部《ヒマツリベ》或は日置部と相関聯して居り、暦日・天候・祈年の事を司ると共に、其に絡んだ呪詞を宣布した迹が見える。すさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]の天つ罪を中心としての神話は、殊に、此等の部曲人の称へた天つ祝詞の、叙事詩化したものだ、と見られる。舎人の意義は平安朝に至つて変化はして来てゐるが、其でも舎人特有の文学が附随してゐたことは明らかだ。即、風俗歌を奉る形式となつて残つたのから見ると、其本貫に於ける呪詞・叙事詩の類を宮廷の儀礼に称へて、主上を祝福した事が窺はれる。平安宮廷の歌合せの原《もと》となり、而も形式化して残つた歌会始の式を見ても、舎人と共に、女の召人なる采女が中心となつてゐた事が思はれる。
采女に就いては、巫女の生活の条にも詳しく述べることは出来まいから、簡単に要点を云ふ。職分及び其由来不明な釆部《ウネメベ》と称するものも、亦解任後の采女を中心とした団体で、同時に宮廷から伝へた呪詞・叙事詩によつて、其呪力を以て地方の邑落を化導して行つたものだ。譬へば、雄略紀の三重[#(ノ)]采女・万葉集の安積山[#(ノ)]采女の物語の如きは、怒り易き威力あるまれびと[#「まれびと」に傍線]を慰撫する意味の言語伝承を持つてゐたと思はれる。

     五 侏儒の芸能

[#ここから2字下げ]
おほみやのちひさことねり。玉ならば、昼は手にすゑ、夜は纏《マ》きねむ(神楽歌譜)
[#ここで字下げ終わり]
舎人に対して、やはり早くから侏儒が召されてゐる。必しも世界宮廷共通の弄臣としての意味許りでなく、尚幾分の特殊性が見られる様だ。其が後に先進国の宮廷の風に合理化したに過ぎないのだらう。所謂小舎人、或は小舎人童と称せられる者の古い形がそれだ。普通侏儒をひきひと[#「ひきひと」に傍線]或はひきうど[#「ひきうど」に傍線]と云ふ様だが、此は宮廷に仕へた場合の称号なのだ。小舎人に当るものが、高低二種類に岐れて、其貴族の子弟の殊に、臨時に召されることを童殿上と云つた。小さ子の侏儒であることを早く忘れて、伝承の形の変化したのが、小子部[#(ノ)]連※[#「虫+果」、第4水準2−87−59]※[#「羸」の「羊」に代えて「果」、33−10]に関した侏儒の本縁だ。国内の蚕を聚めゝされたのを聴き誤つて、嬰児を聚めて、天皇に奉つた為に、「汝自ら養ふべし」と仰せられたので、宮墻の下に養ふことになつた。それで小子部[#(ノ)]連の姓を賜つた、と伝へられてゐる。此文の嬰児が、単なる小児でなく、侏儒であつた事は※[#「虫+果」、第4水準2−87−59]※[#「羸」の「羊」に代えて「果」、33−12]に関する他の伝説からも説明が出来る。舎人に対して、小舎人であり、其が小さ児なることを明らかに示す為に、小さ子舎人と云つた風があつたらしい。
先の神楽歌は、其以前の生活を印象してゐる他に、別様の意義に考へられてゐたものだらう。恐らく五節・淵酔の様な場合の即興歌として歌はれたものと思はれる。此殿上童或は小舎人の起原は、もと家屋の精霊として考へられてゐたのだ。殿舎を祓へ、祝福する場合に、最重要な位置を占めるものと思はれる。此信仰の古いものは、縮見《シヾミ》[#(ノ)]細目の家の新室《ニヒムロ》[#(ノ)]宴《ウタゲ》にまれびと[#「まれびと」に傍線]久米部[#(ノ)]小楯の為に遊び歌はれた二皇子の伝説の如きものが、其適例を示してゐる。殊に其末に、殊舞をなすとあるのは、侏舞の通用或は誤字である。此につけたたづゝまひ[#「たづゝまひ」に傍線]なる訓註を「立ちつ居つの舞」の義に説いてゐるのは誤解であらう。日本紀では、二小皇子の歌舞を複雑に伝へてゐる。此点に於いて、小舎人・侏儒の芸能の様々な種目のあつたことが考へられる。
侏儒の起原を説くものらしい少彦名[#(ノ)]命に就いても、其常世の国に対する事と共に説かねばならぬ部分が多い。

     六 巫女から女房へ

[#ここから7字下げ]
天皇賜[#二]志斐嫗[#一]御歌一首
[#ここから2字下げ]
不聴跡雖云、強流志斐能我強語 比者不聴而、朕恋爾家里
[#ここから7字下げ]
志斐嫗奉[#レ]和歌一首
[#ここから2字下げ]
不聴雖謂、話礼話礼常詔許曾、志斐伊波奏。強話登言(万葉集)
[#ここで字下げ終わり]
実の処、私の古い考へでは、日本文学の源を、専、巫女の託宣に置いてゐた。又、其程、重要な位置を信仰上に占めてゐたのだ。けれども、託宣は遅れて発達してゐるもので、文学の発生時代に置く事は出来ない。巫女の職分であつた事の、男覡の為事となり代つて行つたのもあるだらう。或は、巫女自身が神の妻であるとする信仰から、神と巫女とを混同した多くの例があるから、巫女の仕へる神の業《ワザ》事が巫女の為事となり、同時に神になる事の出来た男性の業も、これに並行して来た迹は十分見られる。
日本に於いては、巫女の勢力の盛んであつた時代が古く且つ長い。宮廷・貴族・国主の家々には、階級的に多数の巫女がゐる。国主・貴族の最上級の巫女が、宮廷に召されて、更に其上に、幾段かの巫女を戴いて、宮廷の神に仕へる。宮廷に於いては、原則として、王氏の巫女と、他氏の巫女とが対立してゐた。後次第に、他氏の巫女が栄えて、王氏の方は衰へて来る。それは、神なる人の主上に仕へる意味に於いて、人間生活の上にも勢力を得たので、宮廷の神に、専仕へるのが、王氏の巫女の為事であつた。とりわけ、当|今《ギン》の皇女は、平安朝に至るまでも、結婚の形式を以て嫁することが出来なかつたのは、総て巫女の資格を持つて、生れて来られるものと考へたからだ。かうした高級巫女に入らせられる方々が、伊勢・加茂の斎宮・斎院以外には、著しくはなくなつて来た。宮廷の神に奉仕するものは、多く国々から召された者の為事となつた。此さへも、時代によつて其階級観に移動があつた。もと汎称的に、而も高い意味に用ゐた諸国の大巫女なる采女が、後には低く考へられた。併し、もと、宮廷には、最高の巫女の外に、家々から奉られた巫女、国々から奉られた巫女が多かつた。其中、神事にたづさはつてゐる者よりも、神なる人に接近してゐる者の方が、位置を高めて来た。即、此意味において、王氏の女よりも、他氏の女の方が、後宮に高い位置を獲るに到つたのだ。更に低いもので見れば、采女であつた女官の中から、女房なる神事以外の奉仕者が現れて来、聖職に与る者は、其下に置かれる様になつた。此は、略《ほぼ》、平安朝初期に起つた信仰の変化である。
王氏の高級巫女に就いては、種々な伝承はあるが、其中斎宮に関するものは、倭媛[#(ノ)]皇女が、宮地を覓めて歩かれた物語が、同時に歴代斎宮の群行の形式を規定してゐる。かうした色々の過去の事実と信ぜられたものが、高級巫女の掟となつた。さうした掟を感得せしめ、聖なる人格を作らせる者があつたのである。其最著しく職業意識を生じたものが、一つの部曲を形づくつた。其存在した処もあり、又其様式を完成せずに了つた処もあるらしいが、所謂語部の実際存在した事は疑はれぬ。巫女と男覡の職分が、交錯してゐる場合が多いのだから、処によれば、男を語部の主体と認めた処もある様だが、概して女性が語部の本職を保ち、戸主でもあつた。此が宮廷式なのである。
呪詞を伝承して暗記させてゐる間に、其主君の皇女・皇子たちに呪詞の含むところの言霊《コトダマ》が作用して、呪詞の儘の力を持つ人とならしめるものと考へた。高級巫女或は、神人を作る為の伝承の為事を、下級の巫女がもつ訣である。
巫女・男覡に限らず、目上の人を教育する力は、信仰上ないものと考へ、唯《ただ》其伝承詞章の威力をうつさうとしたのだ。意識なしにした言語教育であつた。第一には、呪詞に籠る神の魂を受け取り、第二には、叙事詩として、其詞の中に潜んでゐる男性・女性の優れた人の生活が、自分の身にのり移つて来るものと考へ、第三には、自ら知識が其によつて生ずる。かういふ風に、次第に教育的意義を持つて来る訣である。其と共に宮廷に仕へる諸家・諸国出の巫女が、其家・国に伝へた呪法と呪詞・叙事詩を奏する。此が宮廷の文学を発達させる原因になつた。即、諸氏の伝へる所と、宮廷の伝へとがすべて関聯して来る訣だ。采女以外にも、臨時に召された巫女は、平安朝までも残つてゐた。中臣女・物部女などが、其だ。更に宮廷の所在地である大和から出る巫女は、大巫《オホミカムコ》と言はれてゐる。此等もやはり、宮廷の伝承を育てる為事をした、と思はれる。専門的な名称としての語部ではないが、此等の巫女の職分が同様の事であつたのは察せられる。其うち最、語部としての為事に与つたのは、猿女氏である。猿女氏の祖神と信じられてゐる天[#(ノ)]鈿女[#(ノ)]命に関聯した物語は、即、猿女が伝へたものと言ふことが出来る。神代巻に於ける事件のうち、毫も、鈿女命に関係のないところを除いても、尚、宮廷伝承の大部分は猿女氏の伝への与つて居る事が考へられる。猿女氏の伝承がどうして保存せられたかと言ふに、其鎮魂――鈿女[#(ノ)]命以来といふ――並びに鎮魂歌に関聯して、物語が伝承せられて居たためである。唯、猿女氏に限らず語部の後の姿は、威力ある鎮魂歌に就いて、其本縁を語るところの叙事詩を諷誦した事である。だが、此は逆に考へて、語部其物及び宮廷其他の儀礼が衰へた為に、かうした事になつたので、もとは、語部が叙事詩を語り、其一部分として歌が生じたものと思ふ方が順道らしい。
高級巫女であると同時に、姫神となる資格を齎《もたら》しめる様な教育の役をするのが、後代の女房となつたのだ。だから、語部には、男と女と両方あつたらしい。先輩も、亦私も、語部は女ばかりだと考へてゐたのは、多少の訂正を要する。古代の邑落生活様式の、宮廷に帰一せられて来るのは、普通だが、必しもすべてが同じだとは言へない。やはり、別々の姿を保存してゐた。だが、大体に於いて、さうした為事が、女のものであつたことは争へない。
語部の語原に関聯して、かたる[#「かたる」に傍線]とうたふ[#「うたふ」に傍線]との区別を唯一口申したい。うたふ[#「うたふ」に傍線]は抒情詩、かたる[#「かたる」に傍線]は叙事詩を諷誦することであつた。かたる[#「かたる」に傍線]の再活用かたらふ[#「かたらふ」に傍線]の用語例が、その暗示を与へて居ると思ふ。かたらふ[#「かたらふ」に傍線]は言語によつて、感染させて、同一の感情を抱かせると云ふことである。で、私はかたる[#「かたる」に傍線]・かたり[#「かたり」に傍線]が、古代人の信仰に於いて、魂の風化を意味してゐるのだと思ふ。
簡単にまう一度、前に述べた事をくり返すが、言霊は、一語々々に精霊が潜んでゐることだとする人が多い。だが、此は誤解だ。ことば[#「ことば」に傍線]とことのは[#「ことのは」に傍線]とが対立してゐる如く、やはり、こと[#「こと」に傍線]とことば[#「ことば」に傍線]とでは違ふ。こと[#「こと」に傍線]と云ふことは、一つのある連続した唱へ言・呪詞並びに呪詞系統の叙事詩と云ふことだ。かたる[#「かたる」に傍線]と対照的になつてゐる方面のあるとなふ[#「となふ」に傍線]といふ呪詞に関した用語も、実は徇《シタガ》へる義だ。言霊は呪詞の中に潜んでゐる精霊の、呪詞の唱へられる事によつて、目を覚まして活動するものである。呪詞が断片化した諺にも、又叙事詩の一部分なる「歌」にも、言霊がは入つてゐると信じたのである。つまり、完結した意味をもつた文章でなければ、言霊はないことになる。
尠くとも日本人と一つ系統から分岐した沖縄人は、国王に物を教へなかつた。此が、日本と沖縄と運命の岐れて来た理由だ。従つて、沖縄には、優れて立派な国王も居り、また暗愚な国王も出た訣だ。此は、日本紀の記述な
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング