アヅミ》の鎮魂式は、海人部の者が取扱つたもので、此は、特殊な面白味があつたので、日本元来のみたまふり[#「みたまふり」に傍線]とは異つた待遇を受けて、十二月に行はれる事になつた。古来の日本流のがみたまふり[#「みたまふり」に傍線]で、阿曇のは、たましづめ[#「たましづめ」に傍線]の意義が、主なる要素をなして居る。外来魂を身に附けるのが、古い意義の、日本伝来のみたまふり[#「みたまふり」に傍線]で、魂の発散を防止し、且既に、発散した魂をして、鎮まらせる。此が、阿曇のたましづめ[#「たましづめ」に傍線]即、御神楽である。
とにかく、鎮魂式といふのは、群臣から天子様に、魂を差し上げる事だ、とわかればよい。同時に、冬というても、時代によつては、十月の事でもあり、十一月の事でもあり、又十二月の事でもあつた、といふ事を承知してかゝらねばならぬ。
此鎮魂を行ふと、天子様はえらくなる。併し、かうした行事を毎年やるのは、どうした事か。一代に一度やれば、よろしいのであるが、昔の人は、魂は一年間活動すると、もう疲れて役に立たなくなる、と考へて居たから、毎年やるのである。毎年々々、新しく復活して来ねばならぬ、と考へて居つたからである。
恐れ多い事であるが、昔は、天子様の御身体は、魂の容れ物である、と考へられて居た。天子様の御身体の事を、すめみまのみこと[#「すめみまのみこと」に傍線]と申し上げて居た。みま[#「みま」に傍線]は本来、肉体を申し上げる名称で、御身体といふ事である。尊い御子孫の意味であるとされたのは、後の考へ方である。すめ[#「すめ」に傍線]は、神聖を表す詞で、すめ神[#「すめ神」に傍線]のすめ[#「すめ」に傍線]と同様である。すめ神[#「すめ神」に傍線]と申す神様は、何も別に、皇室に関係のある神と申す意味ではない。単に、神聖といふ意味である。此非常な敬語が、天子様や皇族の方を専、申し上げる様になつて来たのである。此すめみまの命[#「すめみまの命」に傍線]に、天皇霊が這入つて、そこで、天子様はえらい御方となられるのである。其を奈良朝頃の合理観から考へて、尊い御子孫、という風に解釈して来て居るが、ほんとうは、御身体といふ事である。魂の這入る御身体といふ事である。
此すめみまの命[#「すめみまの命」に傍線]である御身体即、肉体は、生死があるが、此肉体を充す処の魂は、終始一貫して不変
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