。此を行ふには、庭へ竈を造つて、其日一日は、庭で暮すらしい。日本紀の古註に見える庭なひ[#「庭なひ」に傍線]と言ふのは、其であらう。此事は、考へて見ると、一種の精進で、禁慾生活を意味するのである。だが、庭で縄を絢ふから、庭なひ[#「庭なひ」に傍線]だとしてはいけない。此には、何かの意味があつて、庭で縄を綯ふのであらう。
にはなひ[#「にはなひ」に傍線]・にふなみ[#「にふなみ」に傍線]・にひなめ[#「にひなめ」に傍線]・にへなみ[#「にへなみ」に傍線]、――此四つの用語例を考へて見ると、にへ[#「にへ」に傍線]・には[#「には」に傍線]・にふ[#「にふ」に傍線]は、贄と同語根である事が訣る。此四つの言葉は、にへのいみ[#「にへのいみ」に傍線]といふことで「のいみ」といふことが「なめ」となつたのである。発音から見ても、極近いのである。結局此は、五穀が成熟した後の、贄として神に奉る時の、物忌み・精進の生活である事を意味するのであらう。新しく生つたものを、神に進める為の物忌み、と言ふ事になるのである。神様の召し上りものが、にへ[#「にへ」に傍線]であることは、前にも言うた通りであるが、同時に、天子様の召し上りものも亦、にへ[#「にへ」に傍線]である。さうすると、新嘗の大きな行事であるから、大にひなめ[#「大にひなめ」に傍線]といひ、それからおほんべ[#「おほんべ」に傍線]となつたことが訣る。
此大嘗と新嘗とは、どちらが先かは問題であるが、大嘗は、新嘗の大きなものといふ意味ではなくて、或は大は、壮大なる・神秘なるの意味を表す敬語かも知れぬ。此方が或は、本義かも知れぬ。普通には、大嘗は天皇御一代に一度、と考へられて居るが、古代ではすべて、大嘗であつて、新嘗・大嘗の区別は、無かつたのである。何故かと言ふと、毎年宮中で行はれる事は、尠くとも御代初めに、行はれる事の繰り返しに過ぎない、といふ古代の信仰から考へられるのである。御代初めに一度やられた事を、毎年繰り返さぬと、気が済まぬのであつた、と見るべきである。其が新嘗である。新嘗のみではなく、宮中の行事には、御代初めに、一度行へば済む事を、毎年繰り返す例がある。だから、名称こそ新嘗・大嘗といへ、其源は同一なものである。
此新嘗には、生物《ナマモノ》のみを奉るのではなく、料理した物をも奉る。其前には長い/\物忌みが行はれる。単に、神秘
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