つた。
身毒は、一語も上つて来ないひき緊つた師匠の脣から出る、恐しいことばを予想するのも堪へられない。柱一間を隔いて無言で向ひあつてる師弟の上に、時間は移つて行く。短い夜は、ほの/″\あけて、朝の光りは二人の膝の上に落ちた。
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芸道のため、第一は御仏の為ぢや。心を断つ斧だと思へ。
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かういつて、龍女成仏品といふ一巻を手渡した。
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さあ、これを血書するのぢやぞ。一毫も汚れた心を起すではないぞ。冥罰を忘れなよ。
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身毒はこれまでに覚えのない程、憤りに胸を焦した。然しそれは師匠の語気におびき出されたものに過ぎない。心の裡では、師匠のことばを否定することは出来なかつた。経文を血書してゐる筆の先にも、どうかすると、長者の妹娘の姿がちらめいた。あるときは、その心から妹娘を攘ひ除けたやうな、すが/\しい心持ちになることもある。然しながら、其空虚には朧気な女の、誰とも知らぬ姿が入り込んで来た。最初の写経は、師の手に渡ると、ずた/\に引き裂かれて、火桶に投げ込まれた。身毒は、再度血書した。それが却けられたときに、
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