して調べて見ると、何寿といふ名の者が多い。譬へば、清寿の如きは其である。此は、観音信仰から出てゐるのであらうと思はれるが、お夏清十郎の清十郎といふ名前も、当然或聯想を従へて来る。
かういふ風に、祝詞を宣る人とか、或は昔物語を語る人には、一種の不老不死性が、信仰的に認められてゐるのである。天子には人間的な死がなく、出雲国造にも同様、死がない。此は、当代の国造が死んでも、直ちにおなじ資格で、次の国造が替り立つからであつて、後世の理会の加はつて後にも、国造家では、当主が死んでも、喪に服せない慣習であつた。宮廷に喪があるのは、日のみ子たる資格を完全に、獲得する間の長期の御物忌みを、合理的に解釈したのであつた。支那の礼式に合せ過ぎたのである。
それから今一つ、みこともち[#「みこともち」に傍線]の事に関聯して注意したいのは、わが国では、女神の主神となつてゐる神社の、かなり多い事である。此は多く巫女神で、ほんとうの神は、其蔭に隠れてゐるのである。此女神主体の神社は、今日でも尚多く残存してゐるが、最初は神に奉仕する高級巫女が、後には、神の資格を得て了うたのである。彼女等はその職掌上、殊に人間と隔離し
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