ふ風に祝詞を見ると、天之御蔭・日之御蔭といふ事は、色々な場合に使はれてゐるが、其意味は、常に一定してゐないのである。そして、其が殆ど、無理会のまゝに、使はれてゐるのである。
かういふ事を公言するのは、或は敬虔な先達に、礼を失することになるかも知れぬが、私は式の祝詞を、それ程古いものとは思つてゐない。其は言語史の上から立証出来る事である。尤《もつとも》文中の一部には、かなり古いものを含んだものもあるが、新しいものが最多くて、其上に、用語が不統一を極めてゐる。第一義とか、第二義・第三義といふ様な関係ではなく、口の上で固定した、不文の古典の中から、勝手に意味を抽き出して来て、面々の理会に任せて、使つてゐるのである。さすがに、古い神聖な信仰を伝へてゐる個処では、妄りに意味を替へる様な事をしないで、譬ひ意味が訣らずとも、固定のまゝ又は、曲りなりに使つてゐるが、それでも時代が重なると、替らざるを得ない事になる。
譬へば、神典の天孫降臨の章を見ても、記・紀を突き合せて見ると、凡三通りに分れてゐる。まづ古事記を見ると、「於[#二]天浮橋[#一]、宇岐士摩理、蘇理多多斯弖」とある。随分奇妙な文句であるが
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