、到る所に、祝詞の信仰が澱み残つてゐる。
譬へば、此は、圧迫の烈しかつた為でもあるが、文芸作品の上に現れて来る其時代の出来事は、時代も場所も、現実のものとは変更されてゐる。浄瑠璃を見ても、戯作を見てもさうだ。大阪陣や関个原の役の敵身方は、何れも鎌倉方・京方になつてゐる。歌舞妓芝居は固より、洒落本類や粋書本などにも、其影響が見られる。即、其等の本では、江戸の事を鎌倉へ持つて行つてゐる。稲瀬川三囲の段だの、何が谷《ヤツ》などいふ地名を、江戸の町名の替りにした様な例もあれば、又富个岡八幡を、鶴个岡めかしたやうな記載も見られる。
かういふ風に、時間や空間が、徳川文芸の上で無視せられてゐるのは、前にも述べた通り、確かに、幕府の圧迫に原因してゐる、といつてよいが、特にかういふ遁げ路を取つたのには、理由がなくてはならぬ。私は此を以て、祝詞の信仰が、日本人の頭脳に根深く這入つてゐる結果である、と見るのであつて、よし個々の作者には其処までの確かな意識がないとしても、全体として、其処に源を発してゐる事は、争はれないと思ふ。
次に又、みこともち[#「みこともち」に傍線]の思想から演繹されるのは、をち[#「をち」に傍点]の思想である。此は、言ひかへれば、不老不死といふ意味で、呪詞信仰と密接の関係がある。いつでも、元始《ハジメ》に戻る唱へ言をするから、其度毎に、新しい人になつて、永久不滅の命を得るのである。武内宿禰が、三百余歳の寿を保つたといふのも、其である。而も此人は、本宜《ホキ》歌の由来を繋けられてゐる。長生するのも、尤である。其外、民間の伝承では、倭媛命・八百比丘尼・常陸坊海尊などが、何れも皆長生してゐる、とせられてゐる。此も唱へ言と、関聯してゐるのである。
此等の物語では、昔語りをする人は、同時に昔生きて居た人である、といふ事になつてゐるが、後には、其物語の主人公の側近くゐた人だ、といふ事に変つて来てゐる。譬へば、義経に対して常陸坊海尊、曾我兄弟に対して虎御前などは、此類である。併し、あの虎御前といふのは、実は物語中の人物ではなく、虎ごぜ[#「虎ごぜ」に傍線]といふ人が曾我の事を語りあるいた事を意味するのである。虎ごぜ[#「虎ごぜ」に傍線]の「ごぜ」は、瞽女のごぜ[#「ごぜ」に傍線]と同じである。虎といふ名の盲御前である。其が白拍子風の歌を、鼓を打つて語つたのが、段々成長して、遂に、あの一篇の曾我物語を成したのである。三州長篠のおとら狐や、讃岐の屋島狸が、長篠合戦や、源平合戦の話をするのも、此類である。不思議にも、長篠には浄瑠璃姫の蹟が残つてゐる。有名な屋島狸も、やはり此亜流で、すべてかういふ風に、旧事を物語る人は、必不老不死である、と信ぜられてゐたのである。そして同時に、何処までも遠く遍歴し、謳ひゝろめて歩いてゐた事を示してゐる。
此事を証拠立てる近世の著しい例は、歌念仏を語りあるく念仏比丘尼で、此比丘尼の事は、浄瑠璃にも残つてゐる。殊に、懺悔物語をする比丘尼に於て著しい。若狭の八百比丘尼も、恐らく、其一種の古いものであらうと思ふ。それに、的確に中る例は、近松の「五十年忌歌念仏」である。あれを見ると、清十郎が殺されてから、清十郎の妹と許嫁の女とが、共に歌比丘尼として、廻国の旅に出ることになつてゐるが、此戯曲の根本を考へると、最初は、歌比丘尼の歌が、本《もと》になつて出来たもので、其前には「五人女」のお夏があり、更に其前に、歌祭文の材料になつたお夏があつたのである。西沢一風といふ人が、姫路に行つて、老後のお夏に逢つて、幻滅を感じたといふ有名な話は、多分ほんとうであらうが、とにかく、念仏の上の主人物を謡ひて[#「謡ひて」に傍点]にうつした形である。お夏の事を語り歩いた、念仏比丘尼の一類があつたのは事実で、日本式の推理法に従ふと、其がお夏だといふ事になるのである。真のお夏ではなくとも、其懺悔を語るのは、お夏の資格に於てするのである。此が、昔から語り物を語る根本の資格で、お夏の話も、元は尠くとも、お夏といふ念仏比丘尼の、語りあるいた物語であつた事が訣る。それでなければ、お夏が比丘尼になつた訣がわからない。
ともかく、念仏比丘尼即、熊野比丘尼は、虎御前型である。恐らく、虎御前と云ふ名で総称せられるべき瞽巫女も、其出身は、熊野にあるのではあるまいか。伝ふる所に依ると、あの物語は、箱根権現の信仰から生れたのであるといふから、最初に熊野の信仰を、何人かゞ箱根に移して来て、其を伊豆山と関聯させて、こゝに東西に、二つの熊野が出来たものであらう。相摸の二所権現は、熊野から来てゐるもので、其処を根拠とする、一種の熊野比丘尼の一類が、曾我物語を生み出したのである。其等は皆虎ごぜ[#「虎ごぜ」に傍線]と同じく、熊野系統と見られるものである。ところが、此熊野比丘尼は、注意
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