、大和の祝詞を唱へたのであつて、其証拠は、京都近郊の御料地の神を祭る時の祝詞に、大和の六つの御県の、神名の出て来る事でも明らかである。
尚又、其に関聯して起るのは、地名が転移する事である。全国の地名には、平凡に近い程までに、同名が多くある。が尠くとも、其第一原因は、皆祝詞がさうさせたのである。藤原・飛鳥などは、その顕著な一例であらう。その外、葦原[#(ノ)]中国は、九州にもあり、その他、方々にあるが、此は葦原[g(ノ)]中国の祝詞を唱へれば、即そこが、葦原[#(ノ)]中国になるのであるから、少しも不思議はない。察する所、昔はもつと自由に、地名が移動したのであつて、譬へば、天孫降臨を伝へる叙事詩を諷《うた》へば、直ちに其処が、日向の地になつたであらうと思ふ。此は、昔の人の思考の法則から見て、極めて自然な事である。だから、時間なんかは勿論、いつでも超越してゐた。譬へば、神武天皇も、崇神天皇も、共に「肇国《ハツクニ》しろす天皇」である。私は少年時代に、此事を合理的に考へて見て、どうも、命の革る国の俤を仄かに映し見てゐたのだが、此も肇国の唱へ言があつて、その祝詞を唱へられたお方は、皆肇国しろす天皇なのであつた。其が其中でも、特に印象の深いお方だけの、固有名詞のやうになつて残るに至つたのである。
又、続紀を見ると、「すめらが御代々々中今」といふ風な発想語が見えてゐる。此は、今が一番中心の時だと云ふ意味である。即、今の此時間が、一番のほんとうの時間だ、と思つてゐるのである。一方では「皇が御代々々」といふ長い時間を考へながら、しかも呪詞の力で、其長い時間の中でも、今が最ほんとうの時間になる、と信じたのである。
天が下といふ事でも、古くは天皇陛下の在らせられる処は、高天が原の真下に当る、といふ考へから出た語である。つまり、天と地と直通してゐる皇居だけが、天が下であつた。そして此も皆、祝詞の力が、さうさせるのであつた。
更に今一層、不思議な事は、「商返」の観念である。此は、万葉の歌の中に出て来る事で、普通には「あきかへし」と訓まれてゐるが、又「あきかはり」とも訓まれる。
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商変《アキカヘシ》、しろすとのみのりあらばこそ、我が下ごろも、かへし賜《タバ》らめ(万葉集巻十六)
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といふのが其歌で、此意味は古来明瞭にわかつてゐる。此「商変」といふのは、貸借行為の解放であつて、一たび其詔勅が下れば、一切の債権・債務が帳消しとなるのである。そこで、其関係を男女の関係に当てはめて、軽い皮肉を云つたのが此歌である。こゝに「みのり」とあるのは、朝廷からの命令の事で、憲法を「みのり」と訓むのと、意味に於ておなじことであるが、畢竟此も祝詞であつたのが原形だと見てよい。
商変のみのり[#「みのり」に傍線]の思想は、察するところ、春の初めに、天皇陛下が高御座に上つて、初春の頌詞を宣らせられると、又、天地が新になるといふ思想から、出てゐるのであらう。後には此宮廷行事が、御即位の時だけしかなくなつたが、高御座は、天皇陛下が、天神とおなじ資格になられる場所である。一たび其処へお登りになれば、その宣らせ給ふお言葉は、直ちに、天神自身の言葉である。そして其お言葉が宣られることに依つて、すつかり、時間が元へ復るのである。商変のみのり[#「みのり」に傍線]の効力は、畢竟、此と同一観念に基くものである。民間に関した記録が尠い為に、後世、室町時代に現れた徳政の施行が、物珍らしい事の様に、一部では見られてゐるが、祝詞に対する信仰から云へば、此は当然の形であつて、我が国には古くからあつた事なのである。
かういふ風に、祝詞の力一つで、時間も元へ戻るし、又場所も、自由に移動する。即、時間も空間も、祝詞一つで、どうにでもなるのである。
我が国には古く、言霊《コトダマ》の信仰があるが、従来の解釈の様に、断篇的の言葉に言霊が存在する、と見るのは後世的であつて、古くは、言霊を以て、呪詞の中に潜在する精霊である、と解したのである。併し、それとても、太古からあつた信仰ではない。それよりも前に、祝詞には、其言葉を最初に発した、神の力が宿つてゐて、其言葉を唱へる人は、直ちに其神に成る、といふ信仰のあつた為に、祝詞が神聖視されたのである。そして後世には、其事が忘れられて了うた為に、祝詞には言霊が潜在する、と思ふに至つたのである。だから、言霊と言ふ語の解釈も、比較的に、新しい時代の用語例に、あてはまるに過ぎないものだ、と云はねばならぬ。世間、学者の説く所は、先の先があるもので、かう言ふ信仰行事が、演劇・舞踊・声楽化して出来たのが、日本演芸である。だから日本の芸術には、極端に昔を残してゐる。徳川時代になつても、その改められた所は、ほんの局部に過ぎない。そして注意して見ると
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