、少くとも宗教に似た心に立つた場合に限つて、訓育も智育も理想的に現れるのだと考へます。
この情熱がなくては、教授法も、教育学も、意味が失はれてまゐりませう。生徒、児童の個性を開発《カイホツ》するものは、生徒児童の個性ではなくて、教育者の個性でなければなりません。
たとへば、優れた芸術家が、一人でも先輩或は、周囲の影響を受けないで、偉大な個性に目醒めたといふ例がありませうか。教育は畢竟、個性を芽生えさせる所に意味がある筈です。併しその上に、その個性に、ある進路を与へることがなくては、教育者自身の存在は意味がなくなります。強い言ひ表し方をすれば、教育は、個性を以つて個性を征服するところに、真の意義があるのです。謂はゞ、個性の戦争であるのです。
世の中に固定を恐るべきものは、教育家が第一であると致さねばなりません。一歩停まれば、被教育者から殺されるものとの覚悟がいります。だから、常に足を止めることが出来ないのです。この間の消息は、合同教育、連帯訓化の今の世では、忘れられてゐるのです。昔の塾教育に比べて、今の学校教育の呪はれがちなのは、教育者の人物に由ることは勿論ですが、教育者の責任の軽くなつ
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