れて行く。此次に出て来るのが、前に言うた、神の呪ひを受けた物、と言ふ考へ方である。
稲荷の狐は、南方熊楠翁の解説によれば、托枳尼修法の対象なる托枳尼《ダキニ》と言ふ狼の様な獣の、曲解せられた物だと言ふ事である。其は、外来のものであるが、固有の使はしめ[#「使はしめ」に傍線]と思はれて居るものにも、此類の役獣がありさうな暗示にはなる。
山王の猿は「手白《テシロ》の猿」と称せられた様である。此は使はしめ[#「使はしめ」に傍線]の意義を、正しく見せてはゐる。けれども、山王権現に対するおほやまくひ[#「おほやまくひ」に傍線]の神の本体が、もつとはつきりせぬ間は、生得の使はしめ[#「使はしめ」に傍線]かどうかは、疑ひの余地がある。鳩・鴉・鷺・鼠・狼・鹿・猪・蜈蚣・亀・鰻と言ふ風に、社々の神の使はしめ[#「使はしめ」に傍線]の、大体きまつて居るのも、犠牲料の動物の側から見れば、説明がつく。
一一
ところが一方又、地主神を使はしめ[#「使はしめ」に傍線]或は、役霊と見る様な風も、仏教が神道を異教視して征服に努めた時代から現れて来た。さうなると、後から移り来た神仏に圧倒せられて、解釈の進んだ世に、神としての地位は、解釈だけは進む事なく、精霊同時に、化け物としてのとり扱ひを受けねばならぬ事になつた。
以前、坪内博士も脚色せられた葛城《カツラギ》の神ひとことぬし[#「ひとことぬし」に傍線]の如きは、猛々しい雄略天皇をさへ脅した神だのに、役《エン》[#(ノ)]行者《ギヤウジヤ》にはさん/″\な目にあはされた事になつて居る。逍遙先生は更にぐつと位置をひきさげて「真夏の夜の夢」などに出て来る様な、化け物にして了はれた。
おなじ役[#(ノ)]行者に役せられた大峰山下の前鬼《ゼンキ》・後鬼《ゴキ》と言ふ鬼も、やつぱり、吉野山中の神であつたもの、と思はれる。前鬼・後鬼共に子孫は人間として、其名の村を構へて居る。仏者の側で似た例をあげれば、叡山に対しては、八瀬《ヤセ》の村がある。此村の祖先も亦「我がたつ杣」の始めに、伝教大師に使はれた鬼の後だと言ふ。
一体おに[#「おに」に傍線]と言ふ語は、いろ/\な説明が、いろ/\な人で試みられたけれども、得心のゆく考へはない。今勢力を持つて居る「陰」「隠」などの転音だとする、漢音語原説は、とりわけこなれない考へである。聖徳太子の母君の名を、神隈《カ
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