信太妻の話
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)信太《シノダ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)森|女占《ヲンナウラカタ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「竹かんむり/甫/皿」、第3水準1−89−74]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)安倍[#(ノ)]安名

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)行き/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     一

今から二十年も前、特に青年らしい感傷に耽りがちであつた当時、私の通つて居た学校が、靖国神社の近くにあつた。それで招魂祭にはよく、時間の間を見ては、行き/\したものだ。今もあるやうに、其頃からあの馬場の北側には、猿芝居がかゝつてゐた。ある時這入つて見ると「葛の葉の子別れ」といふのをしてゐる。猿廻しが大した節廻しもなく、さうした場面の抒情的な地の文を謡ふに連れて、葛の葉狐に扮した猿が、右顧左眄の身ぶりをする。
「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり。」何でもさういつた文句だつたと思ふ。猿曳き特有のあの陰惨な声が、若い感傷を誘うたことを、いまだに覚えてゐる。平野の中に横たはつてゐる丘陵の信太《シノダ》山。其を見馴れてゐる私どもにとつては、山又山の地方に流伝すれば、かうした妥当性も生じるものだといふ事が、始めて悟れた。個人の経験から言つても、それ以来、信太妻伝説の背景が、二様の妥当性の重ね写真になつて来たことは事実である。今人の信太妻に関した知識の全内容になつてゐるのは、竹田出雲の「蘆屋道満大内鑑」といふ浄瑠璃の中程の部分なのである。
恋人を死なして乱心した安倍[#(ノ)]安名が、正気に還つて来たのは、信太《シノダ》の森である。狩り出された古狐が逃げて来る。安名が救うてやつた。亡き恋人の妹葛の葉姫といふのが来て、二人ながら幸福感に浸つてゐると、石川悪右衛門といふのが現れて、姫を奪ふ。安名失望の極、腹を切らうとすると、先の狐が葛の葉姫に化けて来て留める。安名は都へも帰られない身の上とて、摂津国安倍野といふ村へ行つて、夫婦暮しをした。その内子供が生れて、五つ位になるまで何事もない。子供の名は「
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