ふ、建築の名人の名を神に代入したのである。此神がえびす神[#「えびす神」に傍線]になつてゐる中部東岸の村の信仰は、其神の性格と名称との変化を、最自然に伝へたもので、此神に対する京都辺での平安末からの理会でも、えびす神[#「えびす神」に傍線]と言ふ事になつて来てゐる。
かうした変化の色々な段階を見せたのは、村々の伝承が、一つの標準を模倣して来ながら、又村の個性を守り、其為に局部の改造が行はれて行き又、尊重する部分が村によつて違うて来る為、廃続の様子がめい/\変つて来たからである。年中行事なども家々村々によつて、壱岐移住後の変化も、明らかに見られる。触《フレ》が違ひ、村が替ると、細かい約束が非常に違つて来る。
方言などは、其村々の本貫を示してゐる傾向が著しいが、音価の動揺・音勢点の相違・音韻の放恣な離合・発声位置の不同などから、表面非常な相違があつても、実は根元一つと見えるものも多い。単語の相違は固より多いが、此は流人の影響が非常にある。
又、音韻矯正・中央語採用などが、村々別々に行はれてゐる。此も勘定に入れてかゝらねばならぬ。殊に、蜑村の語は、島人にも訣らぬと謂はれてゐるが、単語の相違よりも、発音位置が標準発音とは大変な相違を示してゐる。放恣な離合によつて、音の約脱が盛んに行はれてゐるのである。
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へんぶり<へいぬぶり<はひのぼり(這上り=上框)
くまじん<くまぜむ<くまぢぇもん(熊治右衛門)
まつらげる<まつりあげる(献上)
しまりぶし<しまいぶし<しめぃぶし<しめぐし(標串)
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七
私は、壱岐の文明に、三つの時を違へて渡来したものゝ、大きな影響を見てゐる。即、第一唱門師、第二盲僧、そして、第三は前に述べた流人である。
唱門師は陰陽師配下の僧形をした者である。其が段々、陰陽師と勝手に名宣り、世間からも、法師陰陽師などゝ言はれる様になつた。唱門師は大寺の奴隷の出身であるが、後には、寺の関係は薄くなつて行つた者もある。陰陽配下の卜部が宮廷神事に関係して、段々斎部の為事を代理する様になつて行つた。此卜部が勢力を持つ様になつて、神事が段々陰陽道化して、区別のつきにくいまで結合して行つた。
卜部がことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]を掌つて、斎部のほかひ[#「ほかひ」に傍線]に代るやうになつてからは、淫靡な詞章や演出が殖えて行つた。又、この卜部の祝言や演出が、宮廷外にも行はれて行つた。「千秋万歳」と言ふのが、其であつて、宮廷の踏歌の節のことほぎ[#「ことほぎ」に傍線]から出たものである。
卜部の仕丁は、固定した家筋があつたのではなく、四个国の海部から抜くのであつたが、後世は、海部の卜部はなくなつて、神祇官で、卜部氏の配下に、世襲の奴隷の様な形の者が出来た。卜部は陰陽道にも関係があつたから、神道と陰陽道とを兼ね行ふ姿になつた。
卜部氏の下の奴隷は、旧桜町の二个処に居て、叡山との関係は忘れて了うたやうになり、陰陽師の下であるが、同時に、卜部氏を通じて、吉田流の神道方式をも行うた。卜部としての為事は千秋万歳といふ名称で行ひ、中臣祓だけを大事にして、禊を頼まれる時には、陰陽師を名のつた。而も、仏法の関係を忘れては居ずして、所属した寺の仏の縁起や本地物語其他を謡ひ、「翁」を舞うたりした。其時の名が唱門師で、総体に言ふ場合も唱門師であつたらしい。此連衆の翁が、曲舞とも謂はれ、寺の縁起の演奏から出た白拍子舞も曲舞とおなじものなのであつて、千秋万歳にして、白拍子・曲舞を兼ねてゐたのである。此等は皆、千秋万歳の翁ぶりから分化したもので、幸若舞も曲舞の流であるが、亦、疑ひもなく、千秋万歳から出たものであつた。幸若舞の女舞から江戸の女歌舞妓が生れ、猿若も亦幸若の流らしい。
唱門師は、後世の演劇・舞踏・声楽の大切な生みの親である。其と共に、陰陽道・神道を山奥・沖の島まで持ち歩いた。
私は、唱門師の一部が、修験道にも関係して居たのではないかと思ふ。山伏祭文の如きは、卜部系統の物であつて、陰陽師として、祓の代りに、山の神霊に向つて胸中極秘の事を言出《コチヅ》る。日本古代の峠の神に対した方式を、懺悔《サンゲ》と言ふ形に理会して、表白した。其が祭文節の元なる山伏祭文を生んだのだ。唱門師で、同時に、山伏であつた様な団体が、新しい地を開発して土豪となり、諸侯の国に入つては傭兵となつて働き、呪術で敵を調伏し、又常には、芸を演じたりして仕へた。豪族の庶流の人々、亡びた国主の一族などが、かうした形式で渡り歩いた。
唱門師の壱岐へ来たのは、古い事らしい。唯今の島の社々の昔の神主は、凡、陰陽師であつて、裕福なる者は、吉田家の免許状下附を願うて、両様の資格を持つてゐた。だが、大抵は陰陽師配下のものゝ末である。陰陽道では、職神《シキジン》――即、役霊――の事を、後にみさき[#「みさき」に傍線]とも称へてゐた。処が、壱州に来た陰陽師の徒は、みさき[#「みさき」に傍線]を傭ふのに、簡単な方便があつた。其は、やぼさ[#「やぼさ」に傍線]と言ふ島に多く居る精霊を、呪力で駆使する事にした。
壱岐には矢保佐・矢乎佐など言ふ社が、今も多くあり、昔は大変な数になる程あつた。近代では、どうした神やら訣らなくなつてゐるが、香椎の陰陽師の後の屋敷に一个処、みさき明神[#「みさき明神」に傍線]と称へて祀つてゐて、古くはやはり、やぼさ[#「やぼさ」に傍線]であつた。志原には、陰陽師の屋敷のある岡続きに、以前崇めたと言ふやぼさ[#「やぼさ」に傍線]が一个処ある。対馬にやぼさ[#「やぼさ」に傍線]と言うてゐるのは、岡の上の古墓で、より神とも言ふ相である。古墓の祖先の霊で、憑《ヨ》るからのより神[#「より神」に傍線]であらう。さすれば、壱岐に数多いやぼさ[#「やぼさ」に傍線]は元古墓で、祖霊のゐる処と考へてゐたのが、陰陽師の役霊として利用せられる様になつたり、其もとが段々、忘却せられて来たのだらう。
やぼさ[#「やぼさ」に傍線]の崇敬が盛んであつたことは、陰陽師の勢力のあつたことを示すものである。此徒が、陰陽師・唱門師として「島の人生」に統一の原理を教へ、芸術の芽を栽ゑて置いたことは、察せられる。志原の神主の祀る一个処には、行器の形を土で焼いた祠が据ゑてあつた。
島に僧侶の入つたのは、わりに新しい様だ。其為、島に学問の起るのは遅れた。島人の間に、今も伝つて居る百合若説経といふ戯曲は、舞の本・古浄瑠璃のではなく、いちじよ[#「いちじよ」に傍線]と言ふいちこ[#「いちこ」に傍線]の類の者が語るものである。琵琶弾き盲僧も此を語るが、正式にはしない。箱崎の芳野家の「神国愚童随筆」といふ本に、壱岐の神人の事を書いて、命婦《イチ》は女官の長で、大宮司・権大宮司の妻か娘かゞなるとある。さすれば、いち[#「いち」に傍線]は陰陽師の妻が巫女なる例である。
いちじよ[#「いちじよ」に傍線]はやぼさ社[#「やぼさ社」に傍線]に常に参ると言ふ。百合若説経は、弓を叩いて「神よせ」を誦した後に唱へる。さうやつて居る中に、生霊・死霊等が寄つて来ると言ふ。いちじよ[#「いちじよ」に傍線]と陰陽師との関係から考へると、百合若説経は、唱門師が持つて来たものらしく、五説経其他の古い説経よりも「三度の礼拝浅からず」など言ふ句をくり返して、正式に説経らしい形を存してゐる。昔は、いちじよ[#「いちじよ」に傍線]の唱へる説経がもつとあつた様だが、今では残つてもゐないし、いちじよ[#「いちじよ」に傍線]自身も知らない。
此外に、志原の翁は「寅童丸」と言ふ説経らしいものを諳誦して、伝へて居る。伝来は不明であるが、十二段草子系統の稍進んだ形で、古浄瑠璃小栗判官などにも似てゐるけれど、其よりは古めかしい。文の段・忍びの段・百人斬りの段などを、誦み上げるやうにして、聞かしてくれた。百人斬りは、かなりしつかりとして、力ある上に、笑はせる様な文句も這入つてゐる。此も、或はさうした系統の物かと思ふが、訣らない。
忍びの段は、屋敷・庭の叙景など細やかに、古風な姿を見せてゐるが、姫の枕元に行つてからの動作が優美でない。姫の髪の毛を分けて手に捲いて、此を琴の様に弾いて、姫を怒らせる様な事を言うたり、かたらひを遂げる処なども子供らしくて、鄙びた譬喩を使うたりしてゐる処などは、説経の改刪の径路を思はせる。
書かれた根本[#「根本」に傍線]を語る中に、色々な入れ語《コト》を交へて来たのが、又書きとられて根本[#「根本」に傍線]の異本が出来て来る。さうした物を、比老人も読んで覚えたものらしい。此上は幾ら尋ねても、根本[#「根本」に傍線]の有無、口伝か書物からの記憶か、そんな事も、話を外して言うてはくれなかつた。寅童丸の語り物を知つたのは、島中に、此人一人だから、大切にする考へなのであらう。まさか、若い時分に、今は故人のいちじよ[#「いちじよ」に傍線]の一人から深秘の約束で教へられた、と言ふやうなものでゞもあるまい。
浄瑠璃史家は、十二段草子の前に「やすだ物語」と言ふ因幡薬師の縁起を説いたものが、今一つあつて、其が浄瑠璃の最初だらうと言ふ。併し、説経は長い伝統ある物で、安居院《アグヰ》の「神道集」なども、説経の古い形のもので、語つたものに相違なく、やはり一つの浄瑠璃であつたのだ。浄瑠璃節が固定するまでには、其系統の物語は段々あつたと見てよからう。舞の詞なども、唱門師の手にあつたものだから、浄瑠璃化せぬ訣はない。
浄瑠璃は恐らく元、女の語るもので、曾我物語などの様に、瞽女が語つたものであらう。其に仏教の唱導的意義が加つて居ない間は、まだ浄瑠璃の定義に入らないのだと思ふ。盲僧・瞽女の代りに、唱門師・巫女の夫婦が、夫は舞の地の詞として語り、妻は舞から独立した詞章として、舞の詞なども語つたので、巫女の謡ふ詞の方がもてはやされたのだらう。而も、舞の詞を謡ふだけでなく、女が進んで舞を舞ふ様になつたのは、変態ではあるが、詞章よりも舞の方が主として演ぜられる端を開いたのだ。其系統から、妻が演ずる幸若舞々と、神事舞より演じない夫の神事舞々との対偶が出来て来た。この様に夫婦ともに伝統的家職を持つといふことは、唱門師が始めではないかと思ふ。
延年舞・田楽を演じたのも、皆、唱門師であらう。天台説経を伝へた唱門師が、千秋万歳の詞章の習熟から次第に説経文句を固定させて来た。だから、古い時代の説経は、白拍子縁起の様な物の外に、口頭の話の少しく文飾を加へた様なものもあつたであらう。天草本平家物語を見ても知れる様に、既成文章・新作詞章・新作口語文と言ふ様な形が出来て、江戸初期の口語文の物語が出来たとも言へよう。
浄瑠璃と説経との根本の区別を言へば、浄瑠璃は現世利益、説経は来世転生を語るものと言へよう。浄瑠璃は主人公が女で、仏讃歎よりも、人情描写に傾いてゐ、説経は主人公が男で、娑婆の苦患を経て、転生するものである。かう言ふ大きな区別があつたのを、今残る書物では、訣らなくなつたものか。古い説経には、男女に厚薄はない。神道集の釜神・子持山・甲賀三郎の如きである。
浄瑠璃は其名から見れば、薬師仏の効験によつて、業病平癒した一部の懺悔物語でなければならぬ。だから、かたは者や業病の者の謡うた浄瑠璃如来霊験物語など言ふ「地蔵菩薩物語」類の書物で、盲目が自ら謡ふ職で、此を諷ふのは、都合よいが、安田物語などより、もつと古い浄瑠璃があつた筈だと思ふ。癩病平癒物語・餓鬼本復物語・跛行歩物語・唖発語物語、かうした物語があり、また新浄瑠璃が出来て、薬師仏に関係の全般的でない申し子の姫の一生を述べたのだ。思へば、浄瑠璃十二段草子といふ名も、十二段に綴つた一種の浄瑠璃曲の義らしい。
浄瑠璃姫の庵室といふものゝ多くあるのは、現世利益の浄瑠璃を語つて歩いた女があつたことを示し、其浄瑠璃は旧浄瑠璃曲で、死んだ浄瑠璃姫が蘇生するとでも言ふ風な物語であつたのであらう。曾我物語は、虎御前の転身と考へられる瞽女が語り歩いたのと、同様だらう。薬師信仰の時代が、地蔵信仰の時代の次に来た。病者遺棄の風に
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