つち」に傍線]との事を言うてゐる。同じ西海岸の柄杓江の伝へにも、竹田の番匠と言はず、天神様だとして、同じ形式を言うてゐた。
よほど国引き神話に近づいて居るし、あまんしやぐめ[#「あまんしやぐめ」に傍線]の嫉みも、童話に危く堕ち相な境目を示してゐる。折れ柱伝説なども、此神と精霊との争ひから、折れて出来たと言ふ形であつたのかも知れない。
五
神降臨の譚も、色々になつてゐる。東岸筒城八幡のある辺では、八幡様、西岸の中部では、神功皇后だと言ひ、稍北によると、天神様だといふ。が、皆昔ある日の夜、船を著けて上られたものとしてゐる。此は祭りの夜、神来臨の形を、神人・巫女が毎年行うた処から出たもので、神話と其に伴うた祭礼の行事なのであつた。現に此国の住吉神社では、軍越《クサゴエ》の神事と称する祭事に、神人が、神の威厳を以て、島の中を巡つて、呪法を行ふ事になつてゐる。此神幸の一行に遭ふのは、死を以て罰せられるものとして、避けてゐる。
処が、来住の古いことを誇つてゐる家筋では、大晦日の夜の事としたのが多い。大晦日の夜、春の用意をしてゐる時に、神が来臨せられたので、其まゝで御迎へした。其以来此一党では、正月に餅を搗かぬの、標《シ》め飾りをせぬのと言ふ。又、其変化して多く行はれる形は、本土から家の祖先が来た時が、大晦日の夜で、正月の用意も出来ないで、作つて居た年縄《トシナハ》を枕に寝て、春を迎へた。或は、餅を搗く間がなかつたとも言ふ。其で、其子孫一統、正月の飾りや、喰ひ物を作らぬのだ、と説いてゐる。此は皆、富士筑波・蘇民将来の話よりも、古い形なのである。
壱岐の国中の神社は、大体、此海から来られた神と、白鳥となつて空を飛んで来て、翼を休められた遺跡に祀つたのと、水死の骸となつて漂ひついた祟り神を斎ひこめたと言ふのと、神体が漂着したと言ふ社と四通りである。皆海を越えて来た神なる事を示してゐる。此四つの形の神は、海のあなたから、週期的に来臨する神の信仰の分岐したものに過ぎないのである。
春の用意なしに正月をする家筋は、本土にも多いが、神の来る夜に、迎へる家々の人々の、特殊な役目の家婦又は女児の外は、謹んで隠れてゐた風習の近世の合理化を経たのが、一つの原因である。春の喰ひ積みや、しめ[#「しめ」に傍線]・松の飾りを用ゐ、山草をつける風は、海から来る神の信仰の衰へた後、山から来る神に附随して行はれた様式で、村や家によつては、行はない処もあつた。其が、世間の風習にとり残された形になつた時代に、合理的な説明をくつゝける様になつて行つたのである。宮廷及び皇族では、正月松飾りをせられない。此亦、同じ理由であつた。
かうした、民譚や風習をこめた民間伝承に説明を加へて、一続きに置きなほして見ると、此国の生活が、可なり古い姿に踏み止つてゐる事が知れさうだ。
畏れ多い話だが、神功皇后の鎮懐石でも、筑前に在つたものは、巨大な二箇の石で、万葉集にまで大きさが記されてゐる。裳に挿ませられた、と言ふ書き方が婉曲すぎたので、胎中天皇御出生の途を塞がれた、と言ふ古い考へ方は忘れられた様で、腹圧への様に思はれてゐる。壱岐へ来て聞くと、其石を撤して棄てられたから、尊い王子は此時、出現ましましたのである。壱州の先覚者の中には、こんな伝へを材料にして、応神天皇壱岐誕生説を組み立てよう、とさへした人がある。九州子負[#(ノ)]原の石の二つあつた理由は、手間は要るが、説明は出来る。おほゝと[#「おほゝと」に傍線]・をほと[#「をほと」に傍線]など言ふ、かけまくも畏き御名の方がお出でになつたのも、かうした信仰から、英雄・女傑の資格の一つ、と考へる様な事もあつたことを示してゐる。万葉にすら判然せぬ事を、島の粗い趣味には、いまだ原義を残す古さがあつた。其石は今も、勝本の聖母《シヤウモ》神社の北の浜に落ち散つてゐる。白い石の尖つた先に、赤く染つた部分があると言ふ。此は、小さな石である。
国の史官が大事件として、とり扱うた史書の上の事実も、凡俗生活をくり返す、ぢべた[#「ぢべた」に傍点]に喰つゝいた様な人々の上には、一時の出来事として、頭を掠めたゞけで、通り去つてしまふ。蒙古軍が来て、今の島人の脈管に、此島根生ひの血の通はないまで、古い住民を根こそぎに殺して行つたと言はれてゐる。此には、大分の誇張を考へに入れてかゝらねばなるまいが、ともかくも、あんな大事件のあつた痕跡は、誰の頭の隅にも、残つてはゐない。蒙古軍の伝説はあつても、皆、昔からの鬼の話の飜訳に過ぎなかつた。李白の襄陽歌が、其だ。晋代の羊公の碑が、丘の上に台石の飾りも風化して、苔が生えてゐる。こんな状を見て、何とも感じないのは、昔、さうした謝恩の碑を建てた民の子孫であつた。物が残つてゐても、時が立てば忘れもし、印象も薄らいで行く。大嵐の様に通り過ぎた一度きりの史実が、其子孫或は其世近く移り住んだ人たちの、次の代あたりからは、もうすつかり忘れられた。さうして、もつとずつと古くから続いた、歴史よりも力強い年中行事だけが、記憶の底にこびりついてゐるのだ。彼等の歴史は、合理的に考へた民間伝承の起原説明だけであつた。あつたことゝ言ふよりは、なかつた事の反覆せられて、あつた以上の力を持つて、ある時代まで生活様式を規定した事のなごりなのであつた。
壱州の民は、対岸の九国・中国から来た者の末が多い事は知れる。今残つてゐる民間伝承の如きも、或は、其々の郷貫から将来したものも勿論あらう。が併し、壱岐の島に最古くから居残つた村々の伝承が、此島に来住した新渡民の間に、ある日常行為の規定を持つて来た事も考へてよい。土地についた物の授受、地名・道路・神精霊の所在からはじめて、特殊様式の上に、存外多くの模倣・継承が行はれた。神に就ての考へ方なども、恐らく、後世あつた如く、海の彼岸から来る神ばかりを信じた民ばかりではなかつたであらう。其が段々、一つの傾向に進んで行つたものである。五島・平戸・天草・山陰・山陽の辺土、北九州の海村、対馬・隠岐に亘る島々の中、伝承の上から見れば、五島に最類似を持つてゐる。けれども、今伝へる如く、五島の移民が島の再建の率先者と言ふ風には、考へられない。長い武家の世に、次第に渡つて来た民の外に、古く五島に別れ、茲に居ついて、更に、一部分の対馬へ行く者を見送つた人々の伝承が、近古五島から将来したものゝ様な貌をしてゐる事もあるであらう。
六
もつと驚くべきことは、壱岐の島に伝へて居さうな予期を持つて行つて、すつかり失望させられた、壱岐の海部の占ひであつた。壱州に行はれた後世の占ひは、陰陽師配下の唱門師等の伝へたものであつた。海部なども、二部落あるが、片方の八幡蜑と言ふのは、極の近代移住したものらしく、壱州東海岸一帯の海の外潜くことは免されて居なかつた。渡良《ワタラ》の小崎《コザク》蜑と言ふのは、筑前志賀島から来たと言ふ伝へがあつて、壱州を囲む海全体に権利を持つてゐた。此とて、所謂|秀手《ホツテ》の占《ウラ》へと称せられた亀卜に熟した、壱岐の海部の後と言ふことが出来ないもので、やはり、近代の移住と言ふべきであらう。
上代の壱岐の海部は、氓び絶えたか、退転したか、職替へをしたかの三つの中であらうが、私は、第三の方を重く見てゐる。壱州の民は、わり[#「わり」に傍線]の班田を受ける事の出来るのと出来ないのとの二種の群居に分れてゐた。浦に住んで、漁業・航海業を認められてゐた町方の人は、其代り、わり[#「わり」に傍線]を受ける事は出来なかつた。唯、今ある武生水村郷野浦の端、山陰にある本居《モトヰ》の村は、郷野浦の本拠なのであるが、此はれふし[#「れふし」に傍線]村とは言ふが、蜑に近い扱ひを受けてゐた。班田に与る事の出来ないと言ふのも、稼業の性質として、田が作られないからではない。片手間に農作をする例は幾らもある。自家の収獲なる海産物を持つて出て商ふ事から、蜑の家の女は次第に商業に専門になつて、男蜑ばかりの小崎の様な形式が生じた。男は潜きの外に、いざり(沖漁)に熟して、蜑よりも漁師に傾く。
壱州では、町方《マチカタ》町人でない村方百姓の中、浦に沿ふ村では、わり[#「わり」に傍線]を受けながら、漁業をも兼ねてゐた。町方で、商買のない者も多かつた。わり[#「わり」に傍線]も与へられないのだから、村方へ卵を買ひ出しに行つたりして、商買に似た事もやつたりして、口過ぎした者もあつた。新田を開いて、わり[#「わり」に傍線]以外に地を持つ事は許されてゐた事などから見ても、大体血統的に町人・百姓の資格が極つて居て、土地の所有権は先天的のものと考へられて居たのだ。だから、町人と村方百姓の漁業を営む者との間の区別の立ちにくい事情の者でも、村に生れた資格として、わり[#「わり」に傍線]を受け得たのである。
島の町人の職業は、前に挙げた位の単純なものであつた。工業の方面の諸職は、志原の百姓に多かつたことを見ても、町人の範囲は極めて狭く、土地の所属決定した後代に移住した者又は、本来土地に関係のない生業を持つた者、海岸の除地に仮住してゐる者として、政治的交渉を持つことの殆なかつた者――元は、毫もなかつた――此等の群居民が、村をなし、土地の政治の支配を受ける様になつても、田はわられなかつた。此は、蜑の団体から発達したことを見せてゐるのだ。町人の普通の者で、身分の低いものを見れば、蜑との繋りが見えよう。村方の並みの百姓と同格で、町役を勤めることの出来ぬ階級をかこにん[#「かこにん」に傍線](水子人)と言ひ、又浦人とも言ふ。平戸侯の参覲には、水子《カコ》として、船役を命ぜられた。町人の代表階級なる、浦人が徴発せられる公役の船方なのを見ても、漁業は副業として発達したものなのが訣る。だから、浦人から分化した町人全体に、元の形は、蜑だつた姿が見えると言うてよいと思ふ。
二つの町方の町人とても、壱岐の海部の末と言ふことは出来ない。だが、小崎・八幡の蜑よりも古く、住み着いた者の後が、心《シン》になつてゐることは断言出来る。結局、壱岐の海部の占ひは、唯書物の上だけの事になつて了うたのである。書物の上の名高い二つの事がらも、何の痕も残らぬ島の上に、何の関係もない日本武尊を言うたり応神天皇を説いたりするのも、其事蹟に似よりのある伝承が、久しく行はれて居た為、其に固有名詞を附与して、過去の信仰行事の固定か廃絶かした後、歴史的確実性を持たせようとするやうになつて来た為なのだ。村人の知識範囲に在るか、或は、多少歴史的妥当性の感じられる人や物を当てはめたと見る外はない。
壱岐の島でおもしろいことは、こんな小さな島――島の少年が、本土で受けた、此方の海岸から、投げたぼうる[#「ぼうる」に傍線]が彼方の海に落ちるだらう、と言ふ冷かしを無念がつた、と言ふ誇張した話も、此島を漫画化した程度の適切さを感じる小さな島国の中で、一つの系統の民間伝承が、色々な過程を示してゐる事である。ある村では、現に神幸が行はれてゐる。其半里と離れない処では、民譚化を遂げて、神幸の夜に、神に敬礼せなかつた草の、呪はれて、馬さへ喰はぬ藻になつた、と言ふ様な形になつた。其と入り海を隔てた村では、其型で神名だけが替つてゐて、ある家筋の正月行事との関係を説いてゐる。かと思ふと、東岸の村には、又神が入れ替つて、同様な話が伝はり、其一里と隔らぬ西の村には、神が歴史上の人物ではなく、家の祖先に替つて、壱州移住第一夜の事実を、今もとり行ふのだ、と言うてゐる。おなじ海の彼岸から来た神が、名高い番匠となつてゐる。左甚五郎と山姥との争ひの民譚にも似てゐる。
前に述べた原因は、今一つ奥を説かねばならぬ。海から来る神は、建築物を中心として、祝福の呪言を述べるのであつた。其で、建築に与る人が神に仮装して、普請始めなどに出た習慣が出来た。後世、番匠等が玉女壇を設けたり、標立の柱や、大弓矢などを飾つて、儀式を行ふのも、此からである。新室のほかひ[#「新室のほかひ」に傍線]に来た神と神に仮装した後代の番匠との聯絡が忘れられて、飛騨の匠や竹田の番匠など言
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