らわり出して、士分の者を作ることになりました。一定の金額を上納した者、海産物(主として鯨・鰒・海藻)の事情に通じて、才幹のある算筆に達した者、さう言つた者を、平戸物産局配下の役人として、士分扱ひをして、八十石以下の給分をくれたのでした。此が物産の為一方の、謂はゞ藩の手代見た様な者に過ぎないのです。平戸の城代は、郷野浦の上《ウヘ》、武生水《ムシヤウヅ》のおたち山[#「おたち山」に傍線]に来てゐたのですが、此とは何の交渉もありません。
古い意味の士分の家に対しては、歴史的に関係のある村方・浦方の人々は尊敬を失ひませんでした。が、新しい物産の為の士分の者に対しては、別段、主従・親方子方の感情も持ちませんでした。其に此処では、班田制度が、尠くとも戦国以後、ずつと行はれてゐたものと見えますが、此をわり[#「わり」に傍線]と言うて、明治七八年まで続いてゐました。浦方の町人や蜑は、職の上から平等ですし、田を班けられる村方の百姓は、均しくわりあてられる事になつて、二十三年目位には、一切の事情が元に戻るのでした。其で、仲間うちには、極近代までは富みが平均してゐましたし、競争嫉妬など言ふ事がなかつたのです。其で自然、士分の人にも平等に近い態度で接し、仲間どうしは、勿論高下なくつき合うて居ました。
其が、さうした流民から得た謙譲の教へを、まともにとり込んだ素地になつたのです。どうも、私どもさへ、優美でもあり、平和でもあると誇りに感じます。譬へば、他人の家へ行つて、暇を告げる時の挨拶に言ふ「おきばりまつせ」「おいざと」などが、其です。夜戻る時は、「お寝敏《イザト》く」と、農村生活に夜の災を相戒める慣用句「おいざと」を使ひますし、唯の場合には、近所へ出かけても「おきばりまつせ」です。「お気張りませ」でありまして「努力して、家業に服し給へ」と言う風に、考へられてゐる様です。が、此は「努力して餐飯を加へよ」の意で「元気を出して、益健康にいらつしやい」の義だつたらしいのです。かうした旧生活の俤が、いまだに残つてゐる位です。昔から続けた組織以外の新しい階級などは、頭に入りにくいと見えます。だから今《マウ》一息、郡役所の権威は身に沁みない様です。』
三
もう船は、島の南側に廻つてゐた。見るから暗礁《カクレバエ》の多かり相な、石田・初山の前海である。気ぜはしない震動を船体全体に響かしながら、走つてゐる。
『違ひましたら、お免しまつせ。黒崎の神官さまの、東京にお出でる兄息子様でおいでまつせんか。』
瞬間、とんでもない人違ひに当惑させるやうな、だしぬけの問ひをかけながら、話仲間に割りこんで来たのは、四十そこ/\の湯帷子《ユカタ》がけの、分けた頭に手入れの届いてゐる点だけで、相当な身分を思はせる人だ。私は「いゝえ」と答へる下から、その私のとり違へられた当人が、一面識のある人なのに考へ当つた。私のなぢみ深い学生の兄さんで、くろうと好みの新聞の、而も、経済方面に務めてゐる人である。
かうしたことで、さびれた輪廓を、私の心に劃しつゝ居る此島から、あゝした専門の人も出たのかなあ。こんなこみ入つたことを、咄嗟の聯想に思ひ浮べた。私を初めての島渡りだと知つた、此中年の良い闖入者は、もう暗くなりかけた見上げる様な崖の入り込みを、あち見こち見して「此辺では、御座りませんでしたらうか」と老体の方に相談かける様な調子で言ひかけながら「ちよつと見えまっせんが、柱|本《モト》岩といふのが、どれ/\あなたのお持ちの地図の――と、こゝに載つてますね。此岩が、ちようどあのあたりになるのですが、一度見たきり長くなるので」と言ひながら、聞かしてくれた話が、早《ハヤ》、蒼茫として来た波の上にも、聴き耳立てゝ、相槌うつ者が居る、そんな心持ちを起させた。此気分の、私に促した不思議な幻想がとぎれない中に、もう来た。駆逐艦が二艘かゝつてゐる川尻の様な処から、長い水道を這入つて行つた。郷野浦である。外光の中で、人顔も見えぬ位になつても、町にはまだ、電気が来ぬらしい。泊り舟の一つに、蚊やりの燃え立つてゐるのだけが、何の聯絡もなく、古い国、古い港に来たなあ、と言ふ感じを唆つた。
はしけに移つて、乗つたかと思ふと、すぐ岸の石段にあげられた。私に、壱岐の島の民間伝承を調べる機会と、入費とを作つてくれたのは、此島を出た分限者《ブゲンシヤ》で、島の教育の為に、片肌も両肌も袒いでかゝつてゐる人である。此人の教へてくれた宿屋へ、両手に持つた大きな旅かばんを、搬んでくれる車も見えなかつた。船の上り場の立て石の陰から「お荷物持ちまっしゅか」と声をかけて、歩き寄つた女の人があつた。船の中の少年を、五十前後のお婆さんにした様な全体の感じ、お歯黒をつけた口元、背中にちんまり結んだ帯の恰好、よほど暗くなつた、屋並みはづれの薄明りで、はつきり見てとつた様な気がする。此人に荷物を負はせて、案内させながら、道々、豊かな予期がこみあげて来るのを、圧へきることが出来なかつた。再、此島こそ、古い生活の俤が、私の採訪に来るのを、待ち迎へてゐてくれたのだ、といふ気がこみ上げて来た。其先ぶれが、あの少年となり、蘆辺浦の風景となり、東京戻りの壱州人とのとり違へとなり、此中婆さんとなつて、私の心に来てゐるのだ、と言ふ気がして、此港の町の狭い家並みに、見る物すべてに憑《タノモ》しい心が湧いた。
私の宿は、郷野浦の町を見おろす台地の鼻にあつた。座敷の縁に出て、洋服のづぼん吊りを外してゐる時に、町の上のくわつと明るくなつたのは、電気が点いたのである。けれども私の部屋には、電燈がなかつた。次の間にも、玄関にもない。竹の台らんぷが、間もなく持ち出された。私の前に坐つて、飯をよそうてくれる若い下女の顔。茲にも亦、柔らいだ古い輪廓と、無知であつて謙徳を示すまなざしとが備つてゐた。下女は、私の問ふに連れて、色々な話を聞かせた。
下女の家は、郷野浦から、阪一つ越えた麦谷《ムギヤ》といふ処にあつた。旧盆には、麦谷念仏と言ふ行事が行はれた。引率者の下に島渡りした、御館配下の古い村々以外の、新しいより百姓等の作つた在処々々では、此処へ霊祭りに来たのであつた。さうして、島の村々の歴史の目安となる念仏修行も、今は他村からは勤めに来なくなり、島の故老――恐らく二代三代前の者――すら、麦谷念仏の由来を知らぬ様になつて居た。
下女は又、河童が人間の女にばけて、お館の殿と契りを結んで、子を生んだ後、見露されて井《カハ》に飛び入り、海へ帰つた水界の信太妻《シノダツマ》の話を伝へる、殿川《トノカハ》屋敷の古い井《カハ》の、今も麦谷にあることを告げた。壱岐名勝図誌で準備しておいた知識ではあるが、此国へ来ると、まだ其地に臨まない先に、実感らしいものに浮き彫りせられて、其原因が捉へられさうな処まで、ちらつき出す刺戟を感じた。明日は麦谷から渡良の蜑の村を訪ねよう。かう思ひながら、蚊帳を跳ねてほんのり黴の匂ふ、而し糊気の立つた蒲団の上に、身を横にした。
四
此国は、生き島である。生きてあちらこちらに動いた島であつた。其故に、島の名もいき[#「いき」に傍線]と言ひはじめたのである。神様が、此島国を生みつけられた始め、此動く島が、海の中にある事故、繋ぎ留めて、流れて了はぬ工夫をせられた。八本の柱を樹てゝ、其に綱で結んで置いたのである。其柱は折れ残つて、今も岩となつてゐる。折《ヲ》れ柱《バシラ》と言ふのが、其である。いまだに、八本共に揃うてゐる。渡良の大島・渡良の神瀬《カウゼ》・黒崎の唐人神《タウジンガミ》の鼻・勝本の長島・諸津・瀬戸・八幡の鼻・久喜の岸と、八个処に在る訣である。
此中神瀬のが一番大きく、久喜のは柱|本《モト》岩とも言ふ。唐人神の鼻のは、要塞地帯に包まれて了うたから、もう見に行くことも出来ない。其柱の折れた為、綱も断れて、島は少しづゝ、海の上を動いて、さら[#「さら」に傍点](漂)けて[#「けて」に傍点]居るのである。時々出る、年よりたちの悔み言には、一層の事、筑前の国に接《ツ》けといたら、よかつたらうに、と言ふ事である。折れ柱の名は、今も言ひながら、もう此伝へは、私に聞かした人以外、島の物識り・宿老も口を揃へて、そんな話は聞いたこともないと言うた。唯、神が島を生まれた時と言ひ、壱岐の島の神名「天一ッ柱」の名が、折れ柱に関係あり相なのが、後代の合理化を経て居るのではないか、と思はれる点である。
島の生きて動くこと、繋ぎ留めた柱の折れたこと、其が岩に化《ナ》つて残つたこと、此等は民譚としては、珍らしく神話の形を十分に残して居るものと言へる。童話にもならず、英雄の怪力譚には、ならねばならぬ導縁が備つてゐるにも拘らず、さうもならずに居たのは、不思議である。百合若大臣の玄海|島《ジマ》は、壱岐の国だと称して、英雄譚がゝつた物語は、皆、百合若に習合せられてゐる国である。
他の地方では、非常に断篇化してゐるあまのじやく[#「あまのじやく」に傍線]の童話が、壱岐ではまだ神話の俤を失はずにゐる。昔「此世一生、上月夜」で、暗夜といふものゝなかつた頃、五穀豊熟して、人は皆、米の飯に小菜(間引き菜)の汁を常食してゐた。米も麦も黍も粟も皆、沢山の枝がさして、枝毎に実が稔つた。田畑の畔に立つて「来い/\」と招くと、米でも、豆でも皆自ら寄つて来て、手を卸さずとも、とり入れが出来た、と言ふ、そんなよい世の中であつた時、あまんしやぐめ[#「あまんしやぐめ」に傍線]が其を嫉んで、一々枝をこき取つて、茎の頭にだけ残して置いた。豆をしごき忘れたので、此だけは枝が多く出る。さうして最後に、黍をこき上げた時、其葉で掌を切つた。其血が、黍の葉について、赤い筋が出来たのだ。又、田や畠に、雑草の種を蒔いて歩いた。新城《シンジヤウ》で種袋の口が逆さになつて、皆、こぼれて了うた。其為、新城の畠は、雑草が多くて作りにくいのである。
神様――竹田[#(ノ)]番匠と言ふ――が、壱岐の島を段々、造つて行つて、竟に、けいまぎ崎の処から対岸の黒崎かけて地続きにしようとして、藁人形を三千体こしらへ、此に呪《オコナ》ひをかけ、はたらく様にして、一夜の中に造り上げようとした。あまんしやぐめ[#「あまんしやぐめ」に傍線]が、其邪魔をしようと、一番鶏の鳴きまねをした。たけたの番匠[#「たけたの番匠」に傍線]が「けいまぎ(掻い曲げ)うっちょけ(棄《ウチ》置け)」と叫んだ。其で、とう/″\為事は出来上らなかつた。其橋の出来損ねが入り海に残つた。けいまげ崎[#「けいまげ崎」に傍線]である。
此話は、到る処に類型の分布してゐるもので、鬼や天狗などが、今一息の処で鶏が鳴いた為、山・谷・殿堂を作り終へなかつた、と言ふ妖怪譚に近いものとして、残つてゐる。壱岐のには、神――土木工事だから名高い番匠にしたのだ――と精霊との対照が明瞭である。国作りの形も海岸だけに、はつきりしてゐる。竹田[#(ノ)]番匠は北九州では、左甚五郎に代る程の伝説の名工なので、壱岐の島中にも、此人の作だと言ふ塔婆・建築がある。島では、たつたのばんじよう[#「たつたのばんじよう」に傍線]だの、古くはたくたのばんしよう[#「たくたのばんしよう」に傍線]などゝ言ふ。
話し手によつては、鶏の鳴きまねをしたのは、番匠即神であつた。あまんしやぐめ[#「あまんしやぐめ」に傍線]が一夜の中に、橋を渡して了うたら、島人を皆取つて殺してもよいと言ふ約束だつたのだとも言うてゐる。
藁人形は、神或はあまんしやぐめ[#「あまんしやぐめ」に傍線]が、最後に、海と山と川(井)とにてんでに行けと言うたので、それ/\があたろ[#「があたろ」に傍線](河太郎)になつた。海に千疋、山に千疋、川に千疋のがあたろ[#「があたろ」に傍線]が居るのは、此為である。又があたろ[#「があたろ」に傍線]の手をひつぱれば抜けるのは、藁人形の手の、さしこんであつたからだ。此河童の手が人に奪はれ易いことゝ、藁人形が河童になつたと言ふ型は、古くもあり、全国的でもある。あいぬ人[#「あいぬ人」に傍線]さへ、藁人形と水精みんつち[#「みん
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