雪の島
熊本利平氏に寄す
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)壱州《イシユウ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)段々|寄生貝《ガウナ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「魚+昜」、90−10]

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)湯[#(ノ)]本温泉

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぎら/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     一

志賀の鼻を出離れても、内海とかはらぬ静かな凪ぎであつた。舳の向き加減で時たまさし替る光りを、蝙蝠傘に調節してよけながら、玄海の空にまつ直に昇る船の煙に、目を凝してゐた。艫のふなべり枕に寝てゐて、しぶき一雫うけぬ位である。時々、首を擡げて見やると、壱州《イシユウ》らしい海神《ワタツミ》の頭飾《カザシ》の島が、段々|寄生貝《ガウナ》になり、鵜の鳥になりして、やつと其国らしい姿に整うて来た。あの波止場《ハトバ》を、此発動機の姉《アネ》さんの様な、巡航汽船が出てから、もう三時間も経つてゐる。大海《オホウミ》の中にぽつんと産み棄てられた様な様子が「天一柱《アメノヒトツバシラ》」と言ふ島の古名に、如何にもふさはしいといふ聯想と、幽かな感傷とを導いた。
土用過ぎの日の、傾き加減になつてから、波ばかりぎら/\光る、蘆辺浦《アシベウラ》に這入つた。目の醍めた瞬間、ほかにも荷役に寄つた蒸汽があるのかと思うた。それ程、がらにない太い汽笛を響して、前岸の瀬戸の浜へかけて、はしけの客を促して居る。博多から油照りの船路に、乗り倦《アグ》ねた人々は、まだ郷野浦《ガウノウラ》行きの自動車の間には合ふだらうかなどゝ案じながらも、やつぱりおりて行つた。
島にもかうした閑雅が見出されるかと、行かぬ先から壱岐びとに親しみと、豊かな期待を持たせられたのは、先の程まで、私の近くに小半日むっつりと波ばかり眺めて居た少年であつた。福岡大学病院の札のついた薬瓶を持つて居る様だから、多分、投げ出して居た、その繃帯した脚の手術を受けに行つて居たのであらう。膝きりの白飛白《シロガスリ》の筒袖に、ぱんつ[#「ぱんつ」に傍線]の様な物をつけて、腰を瓢箪くびりに皮帯で締めてゐた。十六七だらう。日にも焦けて居ない。頬は落ちて居るが、薄い感じの皮膚に、少年期の末を印象する億劫さうな瞳が、でも、真黒に瞬いてゐた。船室へ乗りあひの衆がおりて行つて後も、前後四時間かうして無言に青空ばかり仰いでゐる私の側《ソバ》に、海の面きり眺めてゐた。
時々頭を擡《モタ》げると、いつも此少年の目に触れた。大学病院へ通つてゐましたか、ぐらゐの話を、人みしりする私でもしかけて見たくなつた程、好感に充ちた無言《ムゴン》の行《ギヤウ》であつた。島の村々を、※[#「魚+昜」、90−10]・干し鰒買ひ集めに、自転車で廻る小さい海産物屋の息子で、丁稚替りをさせられてゐる、と言つた風の姿である。其でゐて、沖縄に四十日ゐて、渋紙から目だけ出してゐる様な、頬骨の出張つた、人を嘲る様に歯並みの白く揃うた男女の顔ばかり見て暮した目のせゐか、東京の教養ある若者にも、ちよつとない静けさだと思つた。なる程、壱岐には京・大阪の好い血の流れが通うてゐる。早合点に、私は予定の二十日《ハツカ》は、気持ちよく、島人と物を言ひ合ふ事の出来さうな気を起してゐた。
此島では、つひ七十年前まで、上方の都への消息に「もしほたれつゝ」わびしい光陰の過し難さを訴へてやつた人たちが住んでゐた。「愍然想《リンギヨギヤ》つてくれ召《メ》せや」と磯藻の様になづさひ寄る濃い情《ナサケ》に、欠伸を忘れる暇もあつた。幾代の、さうした教養ある流され人の、潮風あたる石塔には、今も香花を絶さぬ血筋が残つてゐる。此静かな目は、海部《アマ》や、寄百姓《ヨリビヤクシヤウ》の心理をつきとめても、出て来るものではないだらう。「島の人生」に人道の憂ひを齎した流人《ルニン》たちは、所在なさと人懐しみと後悔のせつなさ[#「せつなさ」に傍線]とを、まづ深く感じ、此を無為の島人に伝へたであらう。
此島人が信じてゐる最初のやらはれ[#「やらはれ」に傍線]人|百合若《ユリワカ》大臣以来、島の南に向いた崎々には、どの岩も此岩も、思ひ入つた目ににじむ雫で、濡れなかつたのはなからう。都びとには概念であつた「ものゝあはれ」は、沖の小島の人の頭には、実感として生きてゐた。少年の思ひ深げな潤んだ瞳は、物成《モノナリ》のとり立てにせつかれたゞけでは、島の世間に現れようがなかつた。其は憧れに於て恋の如く、うち出したい事に於ては文学を生む心に近づいたものである。
だが、其が民謡の形となるには、別の事情が入り用であつた。島には其要件が調うてゐなかつた。島の開発は、わりあひに遅れてゐた。唄も楽器も踊りも、地方《ヂカタ》で十分|芸道《ゲイタウ》化した時代であつた。特殊な伝統もない島の芸術は、皆、百姓と共に寄つて来た。祭礼も宴会も儀式も、必しも歌謡を要せなくなつた時代に始まつた文明は、後々までも、固有の歌を生まないものである。動機もあり、欲求もあつて、其様式がなかつたのである。地方《ヂカタ》から伝はる唄を謳ふ位では、其が新しい音楽を孕み、文学を生み落す懸け声にはならなかつた。悲しんでも、其を発散させる歌もない心は、愈、瞳を黒くした。夏霞の底に動かぬ島山の木立の色の様に、静かに沈んで、凝つて行つた。
八木節のはやつた年であつた。又、私も「かれすゝき」のはやり唄を、二三日前、長崎の町で聞いた時分であつた。心の底に湧き立つ雲の様な調子を、小唄の拍子にでも表さねば、やり場のない様な気分の年配である。まだ病後のをつくう[#「をつくう」に傍点]さが残つてゐるのかと思ふと、尠くとも目をあげた顔には、一面、若い快さを湛へてゐるではないか。舷《ふなべり》にかけた腕も、投げる脚、折り立てた膝も、すべて白飛白が身に叶ふ如くさつぱりと、皮帯のきりゝとした如く凜として居る。よい家・よい村・よい社会を思はせる純良な、少年の身のこなし、潤んだ目に、まづ島人の感情と礼譲とを測定した事であつた。
私の空想が、とんでもない方へ行つてゐる間に、此若者の姿が見えなくなつた。艙※[#「片+總のつくり」、第3水準1−87−68]《ふなまど》の下から、両方へ漕ぎ別れて行つた二艘の一つに、黒瞳の子は薬瓶のはんけちの包みをさげて、立つてゐる。瀬戸の岸へ帰るのだ。此島にゐる間に、復此壱岐びとの内界を代表した目の主に、行き会ふこともあるだらうか。幾年にもない若々しい詩人見たいな感情をおこして居ると、旅の心がしめつぽくなつて来る。そんなことはよしにして、まあ初めて目に入る、島国の土地の印象を、十分にとり込まう。

     二

裏から見た港の町の寂しい屋並みの上に、夏枯れ色の高い岡が、かぶさりかゝつてゐる。艮《ウシトラ》が受けた山陰《ヤマカゲ》の海村には、稍おんもりと陰《カゲ》りがさして来た。まだ暗くなる時間ではないがと※[#「くさかんむり/(さんずい+位)」、第3水準1−91−13]《ノゾ》きこむ機関室のぼん/\時計は、五時に大分近よつたと言ふまでゞある。少し雲の出て来た様子で、蹄鉄形《カナグツガタ》の入り海の向う側の鼻の続きの漁師《レフシ》村は、まともに日を受けて、かん/\と照らされ出した。此黄いろい草の岡にも、強い横日がさして来た。其山の上へ、白い道がうね/\と登つて行つて居り、ぽつ/\と小さな墓が散らばつて見える。二三个処、旧盆過ぎて、まだなごりの墓飾りがちら/\する。絵巻物のまゝの塔婆の目に入るのも、なほ此海島に続いてゐる、古風にひそやかな生活を思はせ顔である。其阪道を、自転車が一台乗りおろして来た。あの上は台地だと言ふ事が察せられる。此が十分二十分とは言はない間、見上げて居た高台の崖の側面の村の全面に動いた物の、唯一つである。かう思うて来ると、島の社会の幽《カソ》けさに、心のはりつめて来るのが感じられる。
花やかな色で隈どつた船が二艘、大分離れて、碇を卸してゐるのは、烏賊釣りに来てゐる天草の家船《エンベ》だ、と教へてくれた。其は、機関の湯を舷に汲み出して、黒い素肌を流して居る船員の心切ぶりだ。出稼ぎに来て、近海で獲つた魚類は、皆壱州の三つ浦――郷野浦・勝本と此蘆辺――で捌いて、金に換へる。其で、目あての獲物が脇の方へ廻る時分になると、対馬へなり、地方《ヂカタ》へなり行つて、復そこで稼ぐ。壱岐のれふし[#「れふし」に傍線]だつて、やつぱりさうであつた。対馬から朝鮮かけて、漁期には村を出払つて、行つてゐる。土地に始中終《しよつちゆう》居て、近海ばかりをせゝくつて[#「せゝくつて」に傍点]ゐるのは、蜑の村の人たちである。其でも近年は、朝鮮近海へ出て行く者も出来た。
こんな話を聴いてゐる中に、地方行きの荷役をすませ、きまつた時間のありだけ、悠々と息を入れてゐた火夫は、なた豆のきせる[#「きせる」に傍点]をたばこ入れ[#「たばこ入れ」に傍線]に挿んで、立ち上つた。
海鴉と言ふ鳶に似た鳥が、蚊を見る様に飛び違ふ中を、ほと/\と汽鑵の音立てゝ、磯伝ひに、島を南にさがつて行つた。ひやついて来たのは、風が少し出たのである。船の大分横ぶれ[#「ぶれ」に傍点]し出したのは、波が立つて来たのである。今晩あたりは一荒《ヒトア》れ来るかなあなどゝ、まだ船に残つてゐた客は、あがる支度を整へて、甲板へ出て来て、噂しあうた。
島の東岸、箱崎・筒|城《キ》の磯には、黒い岩と、灌木の青葉と、風に断《キ》れ/\になつて、木の間に動く日の光りとが、既に、夕陽《ユフカゲ》を催してゐた。日がちり/″\に縮まつて、波も沈んだ色に見え出す頃、金白礁《カナシロセ》の薄雪のかゝつた様な岩肌が、かつきりと、目の前に浮んで来た。他国《タビ》から来た人と見て、慇懃に、さつきから色々な話を持ちかけて来る六十恰好の夏外套着た紳士は、白い髭を片手間にしごいてゐる。此金白礁といふ岩は、壱州の廻りに幾つもある。海の中につき出た黒い岩などが、頭から三盆白でもふりかけた様になつてゐる。
『湯[#(ノ)]本温泉の沖にあるのが、一番見事なので、此を「雪の島」と言うてゐます。昔の本には、壱岐の事を「ゆき」と書いてあるさうです。箱崎の神主の祖先の調べた、壱岐続風土記と言ふ書物は御覧か。村々の役場や、好事家が借り出したきり返さず、其あとの家にも、欠本のまゝになつてゐます。なに、東京の内閣文庫で、完本を見た。なる程、向うにもあることはあるさうです。が、地理に関した点ばかりの極《ゴク》の抄《ヌ》き書きで、役には立たぬ本だと、島から東京へ調べに行つたものが申しました。
郡役所の手で一つにとり寄せたら、と仰言るか。尊卑を弁へて、礼儀正しいわりには、自由思想がありましてね。昔から、町人なら町人、百姓・漁師なら百姓・漁師で、其仲間中の礼儀を守つて居りますし、其腰の低さ、語の柔かさ、とてもよそ外《ホカ》には見られますまい。此は、当国へ渡つた流され人が、大抵身分のよい、罪状も悪くなかつたもので、上方の長袖、殊に、房主が多かつたものですから、其感化です。寺に住みついたのもあり、村方に預けられたのもありますが、島の人の教育は、大抵、流人がしてくれたのです。旧《モト》からもわりあひに、純良な住民ではあつた様です。
九州や中国の大名の一族の逃げこんで来たのもあります。そんなのがあちこちの小高い場処に御館所《オタチシヨ》を開いて、館《タチ》を構へ、配下の者を支配してゐました。其外、唯のより百姓があり、町人があり、海部《アマ》がありしますが、一触《ヒトフレ》・一字の親しみは、非常なものです。御館の下の村でも、御館の主の外は、平等であつた。まして、其以外の階級では、誰が上の下のと言ふ区別は、あまりなかつたのです。士分の制度もありましたが、此は旧郷士を平戸藩で認めて、とり立てたのです。其が後々には、藩の財政か
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