ま[#「みぬま」に傍線]に、候補者又は「控へ」の義のわかみぬま[#「わかみぬま」に傍線]があつたのであらう。大和宮廷の呪詞・物語には、みつは[#「みつは」に傍線]を唯の雨雪の神として、おかみ[#「おかみ」に傍線]に対する女性の精霊と見た傾きがあり、丹生女神とすら、幾分、別のものらしく考へた痕があるのは、後入の習合だからであらう。
いざなぎ[#「いざなぎ」に傍線]の禊ぎに先だつて、よもつひら坂[#「よもつひら坂」に傍線]に現れて「白す言」あつた菊理《クヽリ》媛(日本紀一書)は、みぬま[#「みぬま」に傍線]類の神ではないか。物語を書きつめ、或は元々原話が、錯倒してゐた為、すぐ後の檍原《アハギハラ》の禊《ミソ》ぎの条に出るのを、平坂の黄泉道守《ヨモツチモリ》の白言と並べたのかも知れぬ。其言ふ事をよろしとして散去したとあるのは、禊ぎを教へたものと見るべきであらう。くゝり[#「くゝり」に傍線]は水を潜《クヾ》る事である。泳の字を宛てゝゐる所から見れば、神名の意義も知れる。くゝり[#「くゝり」に傍線]出た女神ゆゑの名であらう。いざなぎの尊[#「いざなぎの尊」に傍線]ばかりの行動として伝へた為、此神は陰の者になつたのであらう。例の神功紀の文は、此くゝり[#「くゝり」に傍線]媛からみつは[#「みつは」に傍線]へ続く禊ぎの叙事詩の断篇化した形である。住吉神の名は、底と中と表《ウヘ》とに居て、神の身を新しく活した力の三つの分化である。「つゝ」と言ふ語は、蛇(=雷)を意味する古語である。「を」は男性の義に考へられて来たやうであるが、其に並べて考へられた※[#「さんずい+文」、第3水準1−86−53]売《ミヌメ》・宗像・水沼の神は実は神ではなかつた。神に近い女、神として生きてゐる神女なる巫女であつたのである。海北[#(ノ)]道[#(ノ)]主[#(ノ)]貴《ムチ》は、宗像三女神の総称となつてゐるが、同じ神と考へられて来た丹波の比沼[#(ノ)]神に仕へる丹波[#(ノ)]道[#(ノ)]主[#(ノ)]貴は、東山陰地方最高の巫女なる神人の家のかばね[#「かばね」に傍線]であつた。
八 とりあげ[#「とりあげ」に傍線]の神女
国々の神部《カムベ》の乞食流離の生活が、神を諸方へ持ち搬んだ。此をてつとり[#「てつとり」に傍点]ばやく表したらしいのは、出雲のあはきへ・わなさひこ[#「あはきへ・わなさひこ」に傍線]なる社の名である。阿波から来経《キヘ》――移り来て住みつい――た事を言ふのだから。前に述べかけた阿波のわなさおほそ[#「わなさおほそ」に傍線]は、出雲に来経たわなさひこ[#「わなさひこ」に傍線]であり、丹波のわなさ翁[#「わなさ翁」に傍線]・媼[#「媼」に傍線]も、同様みぬま[#「みぬま」に傍線]の信仰と、物語とを撒いて廻つた神部の総名であつたに違ひない。養ひ神を携へあるいたわなさ[#「わなさ」に傍線]の神部は、みぬま[#「みぬま」に傍線]・わなさ[#「わなさ」に傍線]関係の物語の語りてゞもあつた。わなさ[#「わなさ」に傍線]物語の老夫婦の名の、わなさ翁[#「わなさ翁」に傍線]・媼[#「媼」に傍線]ときまるのは、尤である。論理の単純を欲すれば、比沼・奈具の神も、阿波から持ち越されたおほげつひめ[#「おほげつひめ」に傍線]であり、とようかのめ[#「とようかのめ」に傍線]であり、外宮の神だとも言へよう。だが、わなさ[#「わなさ」に傍線]神部の本貫については、まだ/\問題がありさうである。
私は実の処、比沼のうなゐ神[#「比沼のうなゐ神」に傍線]は禊ぎの為の神女であり、其仕へる神の姿をも、兼ね示す様になつたものと信じてゐる。丹波[#(ノ)]道主[#(ノ)]貴《ムチ》の家から出る「八処女《ヤヲトメ》」の古い姿なのである。此神女は、伊勢に召されるだけではなかつた。宮廷へも、聖職奉仕に上つてゐる。此初めを説く物語が、さほひめ皇后[#「さほひめ皇后」に傍線]の推奨によるものとしてゐたのである。知られ過ぎた段だが、後々の便宜の為に、引いて置く。
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亦、天皇、其后へ、命詔《ミコトモタ》しめて言はく、「凡、子の名は必、母名づけぬ。此子の御名をば、何とか称へむ。」かれ、答へ白さく、……。又|詔命《ミコトモタ》しむるは、「いかにして、日足《ヒタ》しまつらむ。」答へ白さく、「御母《ミオモ》を取り、大|湯坐《ユヱ》・若|湯坐《ユヱ》定め(御母を取り……湯坐に定めてと訓む方が正しいであらう。又、取御母を養護御母《トリミオモ》の様に訓んで、……に――としての義――大湯坐……を定めてとも訓める)て、ひたし奉らば宜《ヨ》けむ。」かれ、其后の白しに随以《シタガヒモチ》て日足し奉るなり[#「日足し奉るなり」に白丸傍点]。又、其后に問ひて曰はく、「汝所堅之美豆能小佩《ナガカタメコシミヅノヲヒモ》(こおび[#「こおび」に傍線]か)は、誰かも解かむ。」答へ申さく、「旦波比古多々須美智能宇斯王《タニハノヒコタヽスミチノウシノミコ》の女、名は兄比売・弟比売、此|二女王《フタミコ》ぞ、浄き公民《オホミタカラ》(?)なる。かれ、使はさば宜けむ。……」
又、其后の白しのまゝに、みちのうしの王[#「みちのうしの王」に傍線]の女等、比婆須比売命、次に弟比売命(次に弟比売命……命……命とあるべき処だ)次に、歌凝比売命、次に円野比売命、併せて四柱を喚上《メサ》げき。(垂仁記)
唯、妾死すとも、天皇の恩を忘れ敢へじ。願はくは、妾の掌れる后宮の事、宜しく好仇《ヨキツマ》に授け給ふべし。丹波国に五婦人あり。志|並《トモ》に貞潔なり。是、丹波道主王の女なり。[#ここから割り注]道主王は、稚日本根子大日々天皇の子(孫)彦坐王の子なり。一に云はく、彦湯産隅王の子なり。[#ここで割り注終わり]当に掖廷に納れて、后宮の数に盈《ア》つべしと。天皇聴す。……丹波の五女を喚《メ》して、掖廷に納る。第一を日葉酢《ヒハス》姫と曰ひ、第二を淳葉田瓊入《ヌハタヌイリ》媛と曰ひ、第三を真砥野《マトヌ》媛と曰ひ、第四を※[#「たけかんむり/(角+力)」、97−10]瓊入《アザミヌイリ》媛と曰ひ、第五を竹野媛と曰ふ。(垂仁紀)
[#ここで字下げ終わり]
此後が、古事記では、弟王二柱、日本紀では、竹野媛が、国に戻される道で、一人は恥ぢて峻淵に(紀では自堕輿とある)堕ち入つて死ぬ。其から、堕《オツ》国と言うた地名を、今では弟《オト》国と言ふとあるいはながひめ[#「いはながひめ」に傍線]式の伝へになつてゐる。
思ふに、悪女の呪ひの此伝へにもあつたのが、落ちたものであらう。ほむちわけのみこ[#「ほむちわけのみこ」に傍線]のもの言はぬ因縁を説いたのが、古事記では、既に、出雲大神の祟りと変つてゐる。出雲と唖王子とを結びつけた理由は、外にある。紀の自堕輿而死の文面は「自ら堕《オチイ》り、興《コトアゲ》して死す」と見るべきで、輿は興の誤りと見た方がよさ相だ。「おつ」・「おちいる」と言ふ語の一つの用語例に、水に落ちこんで溺れる義があつたのだらう。自殺の方法の中、身投げの本縁を言ふ物語を含んだものである。水の中で死ぬることのはじめをひらいた丹波道主貴の神女は、水の女であつたからと考へたのである。
九 兄媛弟媛
やをとめ[#「やをとめ」に傍線]を説かぬ記・紀にも、二人以上の多人数を承認してゐる。神女の人数を、七《ナヽ》処女・八《ヤ》処女・九《コヽノ》の処女などゝ勘定してゐる。此は、多数を凡そ示す数詞が変化して行つた為である。其と共に実数の上に固定を来した場合もあつた。まづ七処女が古く、八処女が其に替つて勢力を得た。此は、神あそび[#「神あそび」に傍線]の舞人の数が、支那式の「※[#「にんべん+(八/月)」、第3水準1−14−20]《イツ》」を単位とする風に、最叶ふものと考へられ出したからだ。唯の神女群遊には、七処女を言ひ、遊舞《アソビ》には八処女を多く用ゐる。現に、八処女の出処比沼山にすら、真名井の水を浴びたのは、七処女としてゐる。だから、七《ナヽ》――古くは八処女の八も――が、正確に七の数詞と定まるまでには、不定多数を言ひ、次には、多数詞と序数詞との二用語例を生じ、遂に、常の数詞と定まつた。此間に、伝承の上の矛盾が出来たのである。
神女群の全体或は一部を意味するものとして、七処女の語が用ゐられ、四人でも五人でも、言ふ事が出来たのだ。其論法から、八処女も古くは、実数は自由であつた。其神女群の中、最高位にゐる一人がえ[#「え」に傍線](兄)で、其余はひつくるめておと[#「おと」に傍線](弟)と言うた。古事記は既に「弟」の時代用語例に囚はれて、矛盾を重ねてゐる。兄に対して大《オホ》ある如く、弟に対して稚《ワカ》を用ゐて、次位の高級神女を示す風から見れば、弟にも多数と次位の一人とを使ひわけたのだ。即神女の、とりわけ神に近づく者を二人と定め、其中で副位のをおと[#「おと」に傍線]と言ふ様になつたのである。
かうした神女が、一群として宮廷に入つたのが、丹波道主貴の家の女であつた。此七処女は、何の為に召されたか。言ふまでもなくみづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]を解き奉る為である。だが、紐と言へば、すぐ聯想せられるのは、性的生活である。先達諸家の解説にも、此先入が主となつて、古代生活の大切な一面を見落されて了うた。事は、一続きの事実であつた。「ひも」の神秘をとり扱ふ神女は、条件的に「神の嫁」の資格を持たねばならなかつたのである。みづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]を解く事が直に、紐主にまかれる事ではない。一番親しく、神の身に近づく聖職に備るのは、最高の神女である。而も尊体の深い秘密に触れる役目である。みづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]を解き、又結ぶ神事があつたのである。
七処女の真名井の天女・八処女の系統の東遊《アヅマアソビ》天人も、飛行《ヒギヤウ》の力は、天の羽衣に繋つてゐた。だが私は、神女の身に、羽衣を被るとするのは、伝承の推移だと思ふ。神女の手で、天の羽衣を着せ、脱がせられる神があつた。其神の威力を蒙つて、神女自身も神と見なされる。さうして神・神女を同格に観じて、神を稍忘れる様になる。さうなると、神女の、神に奉仕した為事も、神女自身の行為になる。天の羽衣の如きは、神の身についたものである。神自身と見なし奉つた宮廷の主の、常も用ゐられるはずの湯具を、古例に則る大嘗祭の時に限つて、天の羽衣と申し上げる。後世は「衣」と言ふ名に拘つて、上体をも掩ふものとなつたらしいが、古くはもつと小さきもの[#「小さきもの」に傍線]ではなかつたか。ともかく禊ぎ・湯沐みの時、湯や水の中で解きさける物忌みの布と思はれる。誰一人解き方知らぬ神秘の結び方で、其布を結び固め、神となる御躬の霊結びを奉仕する巫女があつた。此聖職、漸く本義を忘れられて、大嘗の時の外は、低い女官の平凡な務めになつて行つた。「御湯殿の上《ウヘ》の日記」は、其書き続がれた年代の長さだけでも、為事の大事であつた事が訣る。元は、御湯殿における神事を日録したものらしい。宮廷の主上の日常御起居に於て、最神聖な時間は、湯を奉る際である。此時の神ながらの言行は記し留めねばならない。かうしてはじまつた日記が、聖躬の健康などに関しても書く様になり、果は雑事までも留めるに到つたものらしい。由緒知らぬが棄てられぬ行事として長い時代を経たのである。御湯殿の神秘は、古い昔に過ぎ去つた。髪やかづら[#「かづら」に傍線]を重く見る時代が来て、御櫛笥殿の方に移り、そこに奉仕する貴女の待遇が重くなつて行つた。
一〇 ふぢはら[#「ふぢはら」に傍線]を名とする聖職
此沐浴の聖職に与るのは、平安前には「中臣女」の為事となつた期間があつたらしい。宮廷に占め得た藤原氏の権勢も、其氏女なる藤原女の天の羽衣に触れる機会が多くなつたからである。
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わが岡の※[#「靈」の「巫」に代えて「龍」、第3水準1−94−88]《オカミ》に言ひて降らせたる、雪のくだけし、そこに散りけむ(万
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