村々も、段々村の旧事を忘れて行つて、御封《ミブ》といふ字音に結びついて了うた。だが早くから、職業は変化して、湯坐《ユヱ》・湯母・乳母《チオモ》・飯嚼《イヒガミ》の外のものと考へられてゐた。でも、乳部と宛てたのを見ても、乳母関係の名なる事は察しられる。又入部と書いてみぶ[#「みぶ」に傍線]と訓まして居るのを見れば、丹生[#「丹生」に傍線](にふ)の女神との交渉が窺れる。或は「水に入る」特殊の為事と、み[#「み」に傍線]・に[#「に」に傍線]の音韻知識から、宛てたものともとれる。
後にも言ふが、丹生神とみぬま神[#「みぬま神」に傍線]との類似は、著しい事なのである。其に大和宮廷の伝承では、丹生神を、後入のみぬま神[#「みぬま神」に傍線]と習合して、みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]としたらしいのを見ると、益《ますます》湯坐・湯母の水に関した為事を持つた事も考へられる。
事実、壬生と産湯との関係は、反正天皇と丹比《タヂヒ》[#(ノ)]壬生部との旧事によつて訣る。出産時の奉仕者の分業から出た名目は、恐らくにふ[#「にふ」に傍線]・みふ[#「みふ」に傍線]の用語例を、分割したものであつたらう。万葉には、赭土《ハニ》即、丹《ニ》をとる広場即、原《フ》と解してゐる歌もあるから、丹生の字面もさうした合理見から出てゐると見られる。にふべ[#「にふべ」に傍線]からみふべ[#「みふべ」に傍線]・みぶ[#「みぶ」に傍線]と音の転じた事も考へてよい。
産湯から育みの事に与る壬生部は、貴種の子の出現の始めに禊ぎの水を灌ぐ役を奉仕してゐたらしい。此が、御名代部の一成因であつた。壬生部の中心が、氏の長の近親の女であつた事も確かである。かうして出現した貴種の若子は、後に其女と婚する事になつたのが、古い形らしい。水辺又は水神に関係ある家々の旧事に、玉依媛の名を伝へるのは、皆此類である。祖《オヤ》(母)神に対して、乳母神《オモカミ》をば[#「をば」に傍線](小母)と言つた処から、母方の叔母即、父から見た妻《メ》の弟《ト》と言ふ語が出来た。此が亦、神を育む姥(をば・うば)神の信仰の元にもなる。
大嘗の中臣天神寿詞は、飲食の料としてばかり、天つ水の由来を説いてゐるが、日のみ子[#「日のみ子」に傍線]甦生の呪詞の中に、産湯を灌ぐ儀式を述べる段があつたのであらう。「夕日より朝日照るまで天つ祝詞《ノリト》の太のりと詞《ゴト》をもて宣《ノ》れ。かくのらば、……」――朝日の照るまで天つ祝詞の……と続くのでない。祝詞の発想の癖から言ふと、こゝで中止して、秘密の天つのりと[#「天つのりと」に傍線]に移るのである。此天つ祝詞にさうした産湯の事が含まれて居たらしい事は、反正天皇の産湯の旧事に、丹比《タヂヒ》[#(ノ)]色鳴《シコメ》[#(ノ)]宿禰が天神寿詞を奏したと伝へてゐる。貴種の出現は、出産も、登極も一つであつた。産湯を語り、飲食を語る天神寿詞が、代々の壬生部の選民から、中臣神主の手に委ねられて行つて、さうした部分が脱落して行つたものらしい。
けれども中臣が奏する寿詞にも、さうしたみふ[#「みふ」に傍線]類似の者の顕れた事は、天子の祓へなる節折《よを》りに、由来不明の中臣女《ナカトミメ》の奉仕した事からも察しられる。中臣天神寿詞と、天子祓への聖水即産湯とが、古くは更に緊密に繋つてゐて、其に仕へるにふ神[#「にふ神」に傍線]役をした巫女であつたと考へる事は、見当違ひではないらしい。丹比《タヂヒ》氏の伝へや、其から出たらしい日本紀の反正天皇御産の記事は、一つの有力な種子である。履中天皇紀は、ある旧事を混同して書いてゐるらしい。二股船を池に浮べた話・宗像三女神の示現などは、出雲風土記のあぢすきたかひこの神[#「あぢすきたかひこの神」に傍線]・垂仁のほむちわけ[#「ほむちわけ」に傍線]などに通じてゐる。だから、みつはわけ天皇[#「みつはわけ天皇」に傍線]にも、生れて後の物語が、丹比壬生部に伝つて居た事が推定出来る。
六 比沼山がひぬま山[#「ひぬま山」に傍線]であること
みぬま[#「みぬま」に傍線]・みつは[#「みつは」に傍線]は一語であるが、みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]の、みつは[#「みつは」に傍線]も、一つものと見てよい。「罔象女」と言ふ支那風の字面は、此丹比神に一種の妖怪性を見てゐたのである。又此女性の神名は、男性の神名おかみ[#「おかみ」に傍線]に対照して用ゐられてゐる。「おかみ」は「水」を司る蛇体だから、みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]は、女性の蛇又は、水中のある動物と考へて居た事は確からしい。大和を中心とした神の考へ方からは、おかみ[#「おかみ」に傍線]・みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]皆山谷の精霊らしく見える。が、もつと広く海川に就て考へてよいはずである。
龍に対するおかみ[#「おかみ」に傍線]、罔象に当るみつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]の呪水の神と考へられた証拠は、神武紀に「水神を厳《イツ》[#(ノ)]罔象女《ミツハノメ》となす」とあるのでも訣る。だが大体に記・紀に見えるみつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]は、禊ぎに関係なく、女神の尿又は涙に成つたとして居る。逆に男神の排泄に化生したものとする説もあつたかも知れぬと思はれるのは、穢れから出て居る事である。
阿波の国美馬郡の「美都波迺売神社」は、注意すべき神である。大和のみつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]と、みつは[#「みつは」に傍線]・みぬま[#「みぬま」に傍線]の一つものなる事を示してゐる。美馬の郡名は、みぬま[#「みぬま」に傍線]或はみつま[#「みつま」に傍線]・みるめ[#「みるめ」に傍線]と音価の動揺してゐたらしい地名である。地名も神の名から出たに違ひない。「のめ」と言ふ接尾語が気になるが、とようかのめ[#「とようかのめ」に傍線]・おほみやのめ[#「おほみやのめ」に傍線]など……のめ[#「……のめ」に傍線]と言ふのは、女性の精霊らしい感じを持つた語である。神と言ふよりも、一段低く見てゐるやうである。みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]の社も、阿波出の卜部などから、宮廷の神名の呼び方に馴れて、のめ[#「のめ」に傍線]を添へたしかつめらしい[#「しかつめらしい」に傍点]称へをとつたのであらう。摂津の西境一帯の海岸は、数里に亘つて、みぬめの浦[#「みぬめの浦」に傍線](又は、みるめ)と称へられてゐた。此処には※[#「さんずい+文」、第3水準1−86−53]売《ミヌメ》神社があつて、みぬめ[#「みぬめ」に傍線]は神の名であつた。前に述べた筑後の水沼君の祀つた宗像三女神は、天真名井のうけひ[#「うけひ」に傍線]に現れたのである。だから、禊ぎの神と言ふ方面もあつたと思ふ。が、恐らくは、みぬま[#「みぬま」に傍線]・宗像は早く習合せられた別神であつたらしい。
丹後風土記逸文の「比沼山」の事。ひちの郷[#「ひちの郷」に傍線]に近いから、山の名も比治山《ヒヂヤマ》と定められてしまうてゐる。丹波の道主[#(ノ)]貴《ムチ》を言ふのに、ひぬま[#「ひぬま」に傍線](氷沼)の……と言ふ風の修飾を置くからと見ると、ひぬま[#「ひぬま」に傍線]の地名は、古くあつたのである。此ひぬま[#「ひぬま」に傍線]も、みぬま[#「みぬま」に傍線]の一統なのであつた。
第一章に言うた様な事が、此語についても、遠い後代まで行はれたらしい。「烏羽玉のわが黒髪は白川の、みつはくむ[#「みつはくむ」に傍線]まで老いにけるかな」(大和物語)と言ふ檜垣[#(ノ)]嫗の歌物語も、瑞歯含《ミヅハク》むだけは訣つても、水は[#「は」に白丸傍点]汲むの方が「老いにけるかな」にしつくりせぬ。此はみつはの女神[#「みつはの女神」に傍線]の蘇生の水に関聯した修辞が、平安に持ち越して訣らなくなつたのを、習慣的に使うたまでだらうと説きたい。此歌などの類型の古い物は、もつとみつは[#「みつは」に傍線]の水を汲む為事が、はつきり詠まれて居たであらう。とにかく、老年変若を希ふ歌には「みつは……」と言ひ、瑞歯に聯想し、水にかけて言ふ習慣もあつた事も考へねばならぬと思ふ。
丹比のみづはわけ[#「丹比のみづはわけ」に傍線]と言ふ名は、瑞歯の聯想を正面にしてゐるが、初めは、みつは神[#「みつは神」に傍線]の名をとつた事は既に述べた。詞章の語句又は、示現の象徴が、無限に譬喩化せられるのが、古代日本の論理であつた。みつは[#「みつは」に傍線]が同時に瑞歯の祝言にもなつたのである。だが此は後について来た意義である。本義はやはり、別に考へなくてはならぬ。
みぬま[#「みぬま」に傍線]・みつは[#「みつは」に傍線]・みつま[#「みつま」に傍線]・みぬめ[#「みぬめ」に傍線]・みるめ[#「みるめ」に傍線]・ひぬま[#「ひぬま」に傍線]。此だけの語に通ずる所は、水神に関した地名で、此に対して、にふ[#「にふ」に傍線](丹生)と、むなかた[#「むなかた」に傍線]の三女神が、あつたらしい事だ。
丹後の比沼山の真名井に現れた女神は、とようかのめ[#「とようかのめ」に傍線]で、外宮の神であつた。即其水及び酒の神としての場合の、神名である。此神初めひぬまのまなゐ[#「ひぬまのまなゐ」に傍線]の水に浴してゐた。阿波のみつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]の社も、那賀郡のわなさおほそ[#「わなさおほそ」に傍線]の神社の存在を考へに入れて見ると、ひぬま[#「ひぬま」に傍線]真名井式の物語があつたらう。出雲にもわなさおきな[#「わなさおきな」に傍線]の社があり、あはきへ・わなさひこ[#「あはきへ・わなさひこ」に傍線]と言ふ神もあつた。阿波のわなさ・おほそ[#「わなさ・おほそ」に傍線]との関係が思はれる。丹波の宇奈韋《ウナヰ》神が、外宮の神であることを思へば、酒の水即食料としての水の神は、処女の姿と考へられても居たのだ。此がみつは[#「みつは」に傍線]の一面である。
七 禊ぎを助ける神女
出雲の古文献に出たみぬま[#「みぬま」に傍線]は早く忘れられた神名であつた。みつは[#「みつは」に傍線]は、まづ水中から出て、用ゐ試みた水を、あぢすきたかひこの命[#「あぢすきたかひこの命」に傍線]に浴せ申した。其縁で、国造神賀詞奏上に上京の際、先例通り其みつは[#「みつは」に傍線]が出て後、此水を用ゐ始めると言ふ習慣のあつた事を物語るのである。風土記の既に非常に曖昧な処があるのは、古詞をある点まで、直訳し、又異訳して、理会出来ぬ処は其俤を出さうとしたからであらう。其が神賀詞となると、口拍子にのり過ぎて、一層わからなくなつてゐるのである。彼方此方の二个処の古川と言ふのが、川岸と言ふやうになり、植物化して考へられて行つた。尤、神功紀のすら、植物と考へてゐたらしい書きぶりである。其詞章の表現は、やゝ宙ぶらりである。何としても「みつは……」は、序歌風に使はれて居、みつはの神[#「みつはの神」に傍線]の若いと同様、若やかに生ひ出づる神とでも説くべきであらう。
思ふに、みつは[#「みつは」に傍線]の中にも、稚みつは[#「稚みつは」に傍線]と呼ばれるものが、禊ぎの際に現れて、其世話をする。此神の発生を説いて、禊ぎ人の穢れから化生したと言ふ古い説明が伝はらなくなつたのかも知れぬ。とにかく、此女神が出て、禊ぎの場処を上・下の瀬と選び迷ふしぐさ[#「しぐさ」に傍線]をした後、中つ瀬の適《ヨロ》しい処に水浴をする。此ふるまひ[#「ふるまひ」に傍線]を見習うて禊ぎの処を定めたらしい。此が久しく意義不明のまゝ繰返され、みぬま[#「みぬま」に傍線]としての女が出て、禊ぎの儀式の手引きをした。其が次第に合理化して、水辺祓除のかいぞへ[#「かいぞへ」に傍線]に中臣女の様な為事をする様になり、其事に関した呪詞の文句が愈無意義になり、他の知識や、行事・習慣から解釈して、発想法を拗れさせて来た。そこに、大体は訣つて、一部分おぼろな気分表現が、出て来たのだらう。
大湯坐《オホユヱ》・若湯坐《ワカユヱ》の発生も知れる。みぬ
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