東遊《アヅマアソビ》天人も、飛行《ヒギヤウ》の力は、天の羽衣に繋《かか》っていた。だが私は、神女の身に、羽衣を被るとするのは、伝承の推移だと思う。神女の手で、天の羽衣を着せ、脱がせられる神があった。その神の威力を蒙って、神女自身も神と見なされる。そうして神・神女を同格に観じて、神をやや忘れるようになる。そうなると、神女の、神に奉仕した為事も、神女自身の行為になる。天の羽衣のごときは、神の身についたものである。神自身と見なし奉った宮廷の主の、常も用いられるはずの湯具を、古例に則《のっと》る大嘗祭の時に限って、天の羽衣と申し上げる。後世は「衣」という名に拘《かかわ》って、上体をも掩《おお》うものとなったらしいが、古くはもっと小さきもの[#「小さきもの」に傍線]ではなかったか。ともかく禊ぎ・湯沐《ゆあ》みの時、湯や水の中で解きさける物忌みの布と思われる。誰一人解き方知らぬ神秘の結び方で、その布を結び固め、神となる御躬の霊結びを奉仕する巫女があった。この聖職、漸く本義を忘れられて、大嘗の時のほかは、低い女官の平凡な務めになっていった。「御湯殿の上《ウヘ》の日記」は、その書き続《つ》がれた年代の長さだけでも、為事の大事であったことがわかる。元は、御湯殿における神事を日録したものらしい。宮廷の主上の日常御起居において、もっとも神聖な時間は、湯を奉る際である。この時の神ながらの言行は記し留めねばならない。こうしてはじまった日記が、聖躬《せいきゅう》の健康などに関しても書くようになり、はては雑事までも留めるに到ったものらしい。由緒知らぬが棄てられぬ行事として長い時代を経たのである。御湯殿の神秘は、古い昔に過ぎ去った。髪やかづら[#「かづら」に傍線]を重く見る時代が来て、御櫛笥殿《みくしげどの》の方に移り、そこに奉仕する貴女の待遇が重くなっていった。
一〇 ふぢはら[#「ふぢはら」に傍線]を名とする聖職
この沐浴の聖職に与《あずか》るのは、平安前には「中臣女」の為事となった期間があったらしい。宮廷に占め得た藤原氏の権勢も、その氏女なる藤原女の天の羽衣に触れる機会が多くなったからである。
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わが岡の※[#「靈」の「巫」に代えて「龍」、第3水準1−94−88]《オカミ》に言ひて降らせたる、雪のくだけし、そこに散りけむ(万葉巻二)
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天武の夫人、藤原[#(ノ)]大刀自《オホトジ》は、飛鳥の岡の上の大原に居て、天皇に酬《むく》いている。この歌のごときは「降らまくは後《ノチ》」とのからかい[#「からかい」に傍点]に対する答えと軽く見られている。が、藤原氏の女の、水の神に縁のあったことを見せているのである。「雨雪のことは、こちらが専門なのです」こういった水の神女としての誇りが、おもしろく昔の人には感じられたのであろう。藤井が原を改めて藤原としたのも、井の水を中心としたからである。中臣女や、その保護者の、水に対する呪力から、飛鳥の岡の上の藤原とのりなおして、一つに奇瑞を示したからであろうと考える。中臣寿詞を見ても、水・湯に絡んだ聖職の正流のような形を見せている。中臣女の役が、他氏の女よりも、恩寵を得る機会を多からしめた。光明皇后に、薬湯施行に絡んで、廃疾人として現れた仏身を洗うた説話の伝っているのも、中臣女としての宮廷神女から、宮廷の伝承を排して、后位に備るにさえ到った史実の背景を物語るのである。藤原の地名も、家名も、水を扱う土地・家筋としての称えである。衣通《そとおり》媛の藤原|郎女《いらつめ》であり、禊ぎに関聯した海岸に居《お》り、物忌みの海藻の歌物語を持ち、また因縁もなさそうな和歌[#(ノ)]浦の女神となった理由も、やや明るくなる。
私は古代皇妃の出自が水界に在って、水神の女であることならびに、その聖職が、天子即位|甦生《そせい》を意味する禊ぎの奉仕にあったことを中心として、この長論を完了しようとしているのである。学校の私の講義のそれに触れた部分から、おし拡げた案が、向山武男君によって提出せられた。それによると、衣通媛の兄媛なる允恭《いんぎょう》の妃の、水盤の冷さを堪《た》えて、夫王を動《うごか》して天位に即《つ》かしめたという伝えも、水の女としての意義を示しているとするのだ。名案であると思う。穢れも、荒行に似た苦しい禊ぎを経れば、除き去ることができ、また天の羽衣を奉仕する水の女の、水に潜《カヅ》いて、冷さに堪えたことを印象しているのである。水盤をかかえたというのは、斎河水《ユカハミヅ》の中に、神なる人とともに、水の中に居て久しきにも堪えたことをいうのらしい。やはりこの皇后の妹で、衣通媛のことらしい田井中比売《タヰノナカツヒメ》の名代《ナシロ》を河部と言うたことなどもおほゝどのみこ[#「おほゝどのみこ」に傍線]の家に出た水の女の兄媛・弟媛だったことを示すのだ。
だが、衣通媛の名代は、紀には藤原部としている。藤原の名が、水神に縁深い地名であり、家の名・団体の名にもなって、かならずしも飛鳥の岡の地に限らなかったことを見せる。ふぢ[#「ふぢ」に傍線]はふち[#「ふち」に傍線]と一つで「淵《フチ》」と固定して残った古語である。かむはたとべ[#「かむはたとべ」に傍線]の親は、山背[#(ノ)]大国[#(ノ)]不遅(記には、大国之淵)であった。水神を意味するのが古い用語例ではないか。ふかぶちのみづやればなの神[#「ふかぶちのみづやればなの神」に傍線]・しこぶち[#「しこぶち」に傍線]などから貴《ムチ》・尊《ムチ》なども、水神に絡んだ名前らしく思われる。神聖な泉があれば、そこには、ふち[#「ふち」に傍線]のいる淵があるものと見て、川谷に縁のない場処なら、ふちはら[#「ふちはら」に傍線]と言うたのであろう。
みづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]のみづ[#「みづ」に傍線]は瑞《ミヅ》と考えられそうである。だが、それよりもまだ原義がある。このみづ[#「みづ」に傍線]は「水」という語の語原を示している。聖水に限った名から、日常の飲料をすら「みづ」と言うようになった。聖水を言う以前は、禊ぎの料として、遠い浄土から、時を限ってより来る水を言うたらしい。満潮に言うみつ[#「みつ」に傍線]も、その動詞化したものであろう。だから、常世波《トコヨナミ》として岸により、川を溯《さかのぼ》り、山野の井泉の底にも通じて春の初めの若水となるものである。みつ/\し[#「みつ/\し」に傍線]は、このみづ[#「みづ」に傍線]をあびたものの顔から姿に言う語で、勇ましく、猛々しく、若々しく、生き生きしているなどと分化する。初春の若水ならぬ常の日の水をも、祝福して言うたところから拡がったものであろう。満潮時をば、人の生れる時と考えるのも、常世から魂のより来ると考えたためであるらしい。みつぬかしは[#「みつぬかしは」に傍線](三角柏・御綱柏)や、みづき[#「みづき」に傍線]と通称せられるいろいろの木も、禊ぎに用いた植物で、海のあなたから流れよって、根をおろしたと信じられていたものらしい。
みつ[#「みつ」に傍線]はまた地名にもなった。そうした常世波のみち来る海浜として、禊ぎの行われたところである。御津とするのは後の理会で「つ」そのものからして「み」を敬語と逆推してとり放したのであった。常世波を広く考えて、遠くよりより来る船の、その波に送られて来着く場処としてのみつ[#「みつ」に傍線]を考え、さらに「つ」とも言うようになったのである。だから、国造の禊ぎする出雲の「三津」、八十島《やそしま》祓えや御禊《ゴケイ》の行われた難波《なにわ》の「御津《ミツ》」などがあるのだ。津《ツ》と言うに適した地形であっても、かならずしもどこもかしこも、津とは称えないわけなのである。後にはみつ[#「みつ」に傍線]の第一音ばかりで、水を表して熟語を作るようになった。
一一 天の羽衣
みづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]は、禊ぎの聖水の中の行事を記念している語である。瑞《ミヅ》という称え言ではなかった。このひも[#「ひも」に傍線]は「あわ緒」など言うに近い結び方をしたものではないか。
天の羽衣や、みづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]は、湯・河に入るためにつけ易《か》えるものではなかった。湯水の中でも、纏《まと》うたままはいる風が固定して、湯に入る時につけ易えることになった。近代民間の湯具も、これである。そこに水の女が現れて、おのれのみ知る結び目をときほぐして、長い物忌みから解放するのである。すなわちこれと同時に神としての自在な資格を得ることになる。後には、健康のための呪術となった。が、もっとも古くは、神の資格を得るための禁欲生活の間に、外からも侵されぬよう、自らも犯さぬために生命の元と考えた部分を結んでおいたのである。この物忌みの後、水に入り、変若《ヲチ》返って、神となりきるのである。だから、天の羽衣は、神其物《カムナガラ》の生活の間には、不要なので、これをとり匿《かく》されて地上の人となったというのは、物忌み衣の後の考え方から見たのである。さて神としての生活に入ると、常人以上に欲望を満たした。みづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]を解いた女は、神秘に触れたのだから、神の嫁[#「神の嫁」に傍線]となる。おそらく湯棚・湯桁は、この神事のために、設けはじめたのだろう。
御湯殿を中心とした説明も、もはやせばくるしく感じだされた。もっと古い水辺の禊ぎを言わねばならなくなった。湯と言えば、温湯を思うようになったのは、「出《イ》づるゆ」からである。神聖なことを示す温い常世の水の、しかも不慮の湧出を讃えて、ゆかは[#「ゆかは」に傍線]と言い、いづるゆ[#「いづるゆ」に傍線]と言うた。「いづ」の古義は、思いがけない現出を言うようである。おなじ変若水《ヲチミヅ》信仰は、沖縄諸島にも伝承せられている。源河節の「源河走河《ヂンガハリカア》や。水か、湯か、潮《ウシユ》か。源河みやらびの御甦生《ウスヂ》どころ」などは、時を定めて来る常世浪《とこよなみ》に浴する村の巫女《ミヤラビ》の生活を伝えたのだ。
常世から来るみづ[#「みづ」に傍線]は、常の水より温いと信じられていたのであるが、ゆ[#「ゆ」に傍線]となるとさらに温度を考えるようになった。ゆ[#「ゆ」に傍線]はもと、斎《ユ》である。しかしこのままでは、語をなすに到らぬ。斎用水《ユカハ》あるいはゆかはみづ[#「ゆかはみづ」に傍線]の形がだんだん縮《ちぢま》って、ゆ[#「ゆ」に傍線]一音で、斎用水を表すことができるようになった。だから、ゆ[#「ゆ」に傍線]は最初、禊ぎの地域を示した。斎戒沐浴をゆかはあみ[#「ゆかはあみ」に傍線](紀には、沐浴を訓《よ》む)と言うこともある。だんだんゆかは[#「ゆかは」に傍線]を家の中に作って、ゆかはあみ[#「ゆかはあみ」に傍線]を行うようになった。「いづるゆかは」がいでゆ[#「いでゆ」に傍線]であるから推せば、ゆかは[#「ゆかは」に傍線]も早くぬる水[#「ぬる水」に傍線]になっていたであろう。ゆかは[#「ゆかは」に傍線]が家の中の物として、似あわしくなく感じられだしてくると、ゆかは[#「ゆかは」に傍線]を意味するゆ[#「ゆ」に傍線]がしだいにぬる水[#「ぬる水」に傍線]の名となってゆくのは、自然である。
一二 たなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]
ゆかは[#「ゆかは」に傍線]の前の姿は、多くは海浜または海に通じる川の淵などにあった。村が山野に深く入ってからは、大河の枝川や、池・湖の入り込んだところなどを択んだようである。そこにゆかはだな[#「ゆかはだな」に傍線](湯河板挙)を作って、神の嫁となる処女を、村の神女(そこに生れた者は、成女戒《せいじょかい》を受けた後は、皆この資格を得た)の中から選り出された兄処女《エヲトメ》が、このたな作り[#「たな作り」に傍線]の建て物に住んで、神のおとずれを待っている。これが物見やぐら造り[#「やぐら造り」
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