水の女
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)拗曲《ようきょく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)呪詞|諷唱《ふうしょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+文」、第3水準1−86−53]売《ミヌメ》

 [#(…)]:訓点送り仮名
 (例)丹比《タヂヒ》[#(ノ)]壬生部

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)みつ/\し
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     一 古代詞章の上の用語例の問題

 口頭伝承の古代詞章の上の、語句や、表現の癖が、特殊な――ある詞章限りの――ものほど、早く固定するはずである。だから、文字記録以前にすでにすでに、時代時代の言語情調や、合理観がはいってくることを考えないで、古代の文章および、それから事実を導こうなどとする人の多いのは、――そうした人ばかりなのは――根本から、まちごうた態度である。
 神聖観に護られて、固定のままあるいは拗曲《ようきょく》したままに、伝った語句もある。だがたいていは、呪詞|諷唱《ふうしょう》者・叙事詩|伝誦《でんしょう》者らの常識が、そうした語句の周囲や文法を変化させて辻褄《つじつま》を合せている。口頭詞章を改作したり、模倣したような文章・歌謡は、ことに時代と個性との理会《りかい》程度に、古代の表現法を妥協させてくる。記・紀・祝詞《のりと》などの記録せられる以前に、容易に原形に戻すことのできぬまでの変化があった。古詞および、古詞応用の新詞章の上に、十分こうしたことが行われた後に、やっと、記録に適当な――あるものは、まだ許されぬ――旧信仰退転の時が来た。奈良朝の記録は、そうした原形・原義と、ある距離を持った表現なることを、忘れてはならぬ。たとえば天の御蔭[#「天の御蔭」に傍線]・日の御蔭[#「日の御蔭」に傍線]・すめらみこと[#「すめらみこと」に傍線]・すめみま[#「すめみま」に傍線]などいう語《ことば》も、奈良朝あるいは、この近代の理会によって用いられている。なかには、一語句でいて、用語例の四つ五つ以上も持っているのがある。
 言語の自然な定義変化のほかに、死語・古語の合理解を元とした擬古文の上の用語例、こういう二方面から考えてみねば、古い詞章や、事実の真の姿は、わかるはずはない。

     二 みぬま[#「みぬま」に傍線]という語

 これから言う話なども、この議論を前提としてかかるのが便利でもあり、その有力な一つの証拠にも役立つわけなのである。
 出雲|国造《くにのみやつこの》神賀詞《カムヨゴト》に見えた、「をち方のふる川岸、こち方のふる川ぎしに生立[#「生立」に傍線](おひたてるヵ)若水沼間《ワカミヌマ》の、いやわかえに、み若えまし、すゝぎふるをとみ[#「をとみ」に傍線]の水のいや復元《ヲチ》に、み変若《ヲチ》まし、……」とある中の「若水沼間」は、全体何のことだか、国学者の古代研究始まって以来の難義の一つとなっている。「生立」とあるところから、生物と見られがちであった。ことに植物らしいという予断が、結論を曇らしてきたようである。宣長以上の組織力を示したただ一人の国学者鈴木重胤は、結局「くるす」の誤りという仮定を断案のように提出している。だが、何よりも先に、神賀詞の内容や、発想の上に含まれている、幾時代の変改を経てきた、多様な姿を見ることを忘れていた。
 早くとも、平安に入って数十年後に、書き物の形をとり、正確には、百数十年たってはじめて公式に記録せられたはずの寿詞《ヨゴト》であったことが、注意せられていなかった。口頭伝承の久しい時間を勘定にいれないでかかっているのは、他の宮廷伝承の祝詞の古い物に対したとおなじ態度である。
「ふる川の向う岸・こちら岸に、大きくなって立っているみぬま[#「みぬま」に傍線]の若いの」と言うてくると、灌木や禾本《かほん》類、ないしは水藻などの聯想が起らずにはいない。ときどきは「生立」に疑いを向けて、「水沼間」の字面の語感にたよって、水たまり・淵などと感じるくらいにとどまったのは、無理もないことである。実は、詞章自身が、口伝えの長い間に、そういう類型式な理会を加えてきていたのである。
 一番これに近い例としては、神功紀・住吉《すみのえ》神出現の段「日向《ひむか》の国の橘《たちばな》の小門《おど》のみな底に居て、水葉稚之出居《ミツハモワカ(?)ニイデヰル》神。名は表筒男《うわつつのお》・中筒男・底筒男の神あり」というのがある。これも表現の上から見れば、水中の草葉・瑞々《みずみず》しい葉などを修飾句に据えたものと考えていたのらしい。変った考えでは、みつは[#「みつは」に傍線]は水走で、禊《みそ》ぎの水の迸《ほとばし》る様だとするのもある。
 みぬま[#「みぬま」に傍線]・みつは[#「みつは」に傍線]、おなじ語に相違ない。それに若さの形容がつき纏《まと》うている。だが神賀詞に比べると「出居[#「居」に白丸傍点]」という語が「水葉」の用法を自由にしている。動物・人間ともとれる言い方である。ただそうすれば、みつは[#「みつは」に傍線]云々の句に、呪詞なり叙事詩なりの知識が、予約せられていると見ねばならぬ。それにしても、この表記法では、すでに固定して、記録時代の理会が加っているものと言えよう。
 この二つの詞章の間に通じている、一つの事実だけは、やっと知れる。それはこの語が禊ぎに関聯したものなることである。みぬま[#「みぬま」に傍線]・みつは[#「みつは」に傍線]と言い、その若いように、若くなるといった考え方を持っていたらしいとも言える。古代の禊ぎの方式には、重大な条件であったことで、夙《はや》く行われなくなった部分があったのだ。詞章は変改を重ねながら、固定を合理化してゆく。みつは[#「みつは」に傍線]・みぬま[#「みぬま」に傍線]と若やぐ霊力とを、いろいろな形にくみ合せて解釈してくる。それが、詞章の形を歪《ゆが》ませてしまう。
 宮廷の大祓《おおはらえ》式は、あまりにも水との縁が離れ過ぎていた。祝詞の効果を拡張し過ぎて、空文を唱えた傾きが多い。一方また、神祇官の卜部《うらべ》を媒《なかだち》にして、陰陽《おんみょう》道は、知らず悟らぬうちに、古式を飜案して行っていた。出雲国造の奏寿のために上京する際の禊ぎは、出雲風土記の記述によると、わりに古い型を守っていたものと見てよい。そうしてすくなくとも、これにはあって、宮廷の行事および呪詞にない一つは、みぬま[#「みぬま」に傍線]に絡んだ部分である。大祓詞および節折《ヨヲ》りの呪詞の秘密な部分として、発表せられないでいたのかも知れない。だが、大祓詞は放つ方ばかりを扱うたことを示している。禊ぎに関して発生した神々を説く段があって、その後新しい生活を祝福する詞を述べたに違いない。そして大直日《おおなおび》の祭りとその祝詞とが神楽《かぐら》化し、祭文化し、祭文化する以前には、みぬま[#「みぬま」に傍線]という名も出てきたかも知れない。

     三 出雲びとのみぬは[#「みぬは」に傍線]

 神賀詞を唱えた国造の国の出雲では、みぬま[#「みぬま」に傍線]の神名であることを知ってもいた。みぬは[#「みぬは」に傍線]としてである。風土記には、二社を登録している。二つながら、現に国造のいる杵築《きづき》にあったのである。でも、みぬま[#「みぬま」に傍線]となると、わからなくなった呪詞・叙事詩の上の名辞としか感ぜられなかったのであろう。
 水沼の字は、おなじ風土記|仁多郡《にたのこおり》の一章に二とこまで出ている。
[#ここから2字下げ]
三津郷……大穴持命《おおなもちのみこと》の御子|阿遅須枳高日子《アヂスキタカヒコ》命……大神|夢《ユメ》に願《ネ》ぎ給はく「御子の哭《な》く由を告《ノ》れ」と夢に願ぎましゝかば、夢に、御子の辞《コト》通《カヨ》ふと見ましき。かれ寤《さ》めて問ひ給ひしかば、爾時《ソノトキ》に「御津《ミアサキ》」と申《まお》しき。その時|何処《いずく》を然《しか》言ふと問ひ給ひしかば、即、御祖《ミオヤ》の前を立去於坐《タチサリニイデマ》して、石川渡り、阪の上に至り留り、此処《ここ》と申しき。その時、其津の水沼於而《ミヌマイデ(?)テ》、御身|沐浴《ソヽ》ぎ坐《マ》しき。故《かれ》、国造の神吉事《カムヨゴト》奏《まお》して朝廷《みかど》に参向《まいむか》ふ時、其水沼|出而《イデヽ》用ゐ初むるなり。
[#ここで字下げ終わり]
 出雲風土記考証の著者後藤さんは、やはり汲出説である。この条は、この本のあちこちに散らばったあぢすき神[#「あぢすき神」に傍線]の事蹟と、一続きの呪詞的叙事詩であったようだ。おそらく、国造代替りまたは、毎年の禊ぎを行う時に唱えたものであろうと思う。禊ぎの習慣の由来として、みぬま[#「みぬま」に傍線]の出現を言う条《くだり》があり、実際にも、みぬま[#「みぬま」に傍線]がはたらいたものと見られる。だが、その詞は、神賀詞とは別の物で、あぢすき神[#「あぢすき神」に傍線]と禊ぎとの関係を説く呪詞だったのである。その詞章が、断篇式に神賀詞にもはいっていって、みぬま[#「みぬま」に傍線]および関係深い白鳥の生き御調《みつき》がわり込んできたものであるらしい。
 水沼間・水沼・弥努波(または、婆)と三様に、出雲文献に出ているから、「水汲」と訂《ただ》すのは考えものである。後世の考えから直されねばならぬほど、風土記の「水沼」は、不思議な感じを持っているのだ。人間に似たもののように伝えられていたのだ。この風土記の上《たてまつ》られた天平五年には、その信仰伝承が衰微していたのであろう。だから儀式の現状を説く古《いにしえ》の口述が、あるいは禊ぎのための水たまり[#「水たまり」に傍点]を聯想するまでになっていたのかも知れぬ。もちろんみぬま[#「みぬま」に傍線]なる者の現れる事実などは、伝説化してしもうていたであろう。三津郷の名の由来でも、「三津」にみつま[#「みつま」に傍線]の「みつ」を含み、あるいは三沢(後藤さん説)にみぬ[#「みぬ」に傍線](沢をぬ[#「ぬ」に傍線]・ぬま[#「ぬま」に傍線]と訓じたと見て)の義があったものと見る方がよいかも知れない。でないと、あぢすき神[#「あぢすき神」に傍線]を学んでする国造の禊ぎに、みぬま[#「みぬま」に傍線]の出現する本縁の説かれていないことになる。「つ」と「ぬ」との地名関係も「つ」から「さは」に変化するのよりは自然である。

     四 筑紫の水沼氏

 筑後|三瀦《みぬま》郡は、古い水沼氏の根拠地であった。この名を称えた氏は、幾流もあったようである。宗像《むなかた》三女神を祀った家は、その君姓の者と伝えているが、後々は混乱しているであろう。宗像神に事《つか》えるがゆえに、水沼氏を称したのもあるようである。この三女神は、分布の広い神であるが、性格の類似から異神の習合せられたのも多いのである。宇佐から宗像、それから三瀦というふうに、この神の信仰はひろがったと見るのが、今のところ、正しいであろう。だが、三瀦の地で始めて、この家名ができたと見ることはできない。
 それよりも早く神の名のみぬま[#「みぬま」に傍線]があったのである。宗像三女神が名高くなったのは鐘が岬を中心にした航路(私は海の中道《なかみち》に対して、海北の道中が、これだと考えている)にいて、敬拝する者を護ったからのことと思う。水沼神主の信仰が似た形を持ったがために、宗像神に習合しなかったとは言えぬ。そういうことの考えられるほど、みぬま神[#「みぬま神」に傍線]は、古くから広く行きわたっていたのである。三瀦の地名は、みぬま[#「みぬま」に傍線]・みむま[#「みむま」に傍線](倭名鈔)・みつま[#「みつま」に傍線]など、時代によって、発音が変っている。だが全体と
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