しては、古代の記録無力の時代には、もっと音位が自由に動いていたのである。
結論の導きになることを先に述べると、みぬま[#「みぬま」に傍線]・みぬは[#「みぬは」に傍線]・みつは[#「みつは」に傍線]・みつめ[#「みつめ」に傍線]・みぬめ[#「みぬめ」に傍線]・みるめ[#「みるめ」に傍線]・ひぬま[#「ひぬま」に傍線]・ひぬめ[#「ひぬめ」に傍線]などと変化して、同じ内容が考えられていたようである。地名になったのは、さらに略したみぬ[#「みぬ」に傍線]・みつ[#「みつ」に傍線]・ひぬ[#「ひぬ」に傍線]などがあり、またつ[#「つ」に傍線]・ぬ[#「ぬ」に傍線]を領格の助辞と見てのきり棄てたみま[#「みま」に傍線]・みめ[#「みめ」に傍線]・ひめ[#「ひめ」に傍線]などの郡郷の称号ができている。
五 丹生と壬生部
数多かった壬生部《にうべ》の氏々・村々も、だんだん村の旧事を忘れていって、御封《ミブ》という字音に結びついてしもうた。だが早くから、職業は変化して、湯坐《ユヱ》・湯母・乳母《チオモ》・飯嚼《イヒガミ》のほかのものと考えられていた。でも、乳部と宛てたのを見ても、乳母関係の名なることは察しられる。また入部と書いてみぶ[#「みぶ」に傍線]と訓《よ》ましているのを見れば、丹生[#「丹生」に傍線](にふ)の女神との交渉が窺《うかがわ》れる。あるいは「水に入る」特殊の為事《しごと》と、み[#「み」に傍線]・に[#「に」に傍線]の音韻知識から、宛てたものともとれる。
後にも言うが、丹生神とみぬま神[#「みぬま神」に傍線]との類似は、著しいことなのである。それに大和宮廷の伝承では、丹生神を、後入のみぬま神[#「みぬま神」に傍線]と習合して、みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]としたらしいのを見ると、ますます湯坐・湯母の水に関した為事を持ったことも考えられる。
事実、壬生と産湯との関係は、反正天皇と丹比《タヂヒ》[#(ノ)]壬生部との旧事によってわかる。出産時の奉仕者の分業から出た名目は、おそらくにふ[#「にふ」に傍線]・みふ[#「みふ」に傍線]の用語例を、分割したものであったろう。万葉《まんにょう》には、赭土《ハニ》すなわち、丹《ニ》をとる広場すなわち、原《フ》と解している歌もあるから、丹生の字面もそうした合理見から出ていると見られる。にふべ[#「にふべ」に傍線]からみふべ[#「みふべ」に傍線]・みぶ[#「みぶ」に傍線]と音の転じたことも考えてよい。
産湯から育《はぐく》みのことに与《あずか》る壬生部は、貴種の子の出現の始めに禊ぎの水を灌《そそ》ぐ役を奉仕していたらしい。これが、御名代部《みなしろべ》の一成因であった。壬生部の中心が、氏の長《おさ》の近親の女であったことも確かである。こうして出現した貴種の若子《わくご》は、後にその女と婚することになったのが、古い形らしい。水辺または水神に関係ある家々の旧事に、玉依媛《たまよりひめ》の名を伝えるのは、皆この類である。祖《オヤ》(母)神に対して、乳母神《オモカミ》をば[#「をば」に傍線](小母)と言ったところから、母方の叔母すなわち、父から見た妻《メ》の弟《ト》という語ができた。これがまた、神を育む姥(をば・うば)神の信仰の元にもなる。
大嘗の中臣天神寿詞《なかとみのあまつかみのよごと》は、飲食の料としてばかり、天つ水の由来を説いているが、日のみ子[#「日のみ子」に傍線]甦生《そせい》の呪詞の中に、産湯を灌ぐ儀式を述べる段があったのであろう。「夕日より朝日照るまで天つ祝詞《ノリト》の太のりと詞《ゴト》をもて宣《ノ》れ。かくのらば、……」――朝日の照るまで天つ祝詞の……と続くのでない。祝詞の発想の癖から言うと、ここで中止して、秘密の天つのりと[#「天つのりと」に傍線]に移るのである。この天つ祝詞にそうした産湯のことが含まれていたらしいことは、反正天皇の産湯の旧事に、丹比《タヂヒ》[#(ノ)]色鳴《シコメ》[#(ノ)]宿禰が天神寿詞を奏したと伝えている。貴種の出現は、出産も、登極《とうきょく》も一つであった。産湯を語り、飲食を語る天神寿詞が、代々の壬生部の選民から、中臣神主の手に委ねられていって、そうした部分が脱落していったものらしい。
けれども中臣が奏する寿詞にも、そうしたみふ[#「みふ」に傍線]類似の者の顕れたことは、天子の祓えなる節折《よお》りに、由来不明の中臣女《ナカトミメ》の奉仕したことからも察しられる。中臣天神寿詞と、天子祓えの聖水すなわち産湯とが、古くはさらに緊密に繋《つなが》っていて、それに仕えるにふ神[#「にふ神」に傍線]役をした巫女であったと考えることは、見当違いではないらしい。丹比《タヂヒ》氏の伝えや、それから出たらしい日本紀の反正天皇御産の記事は、一つの有力な種子である。履中天皇紀は、ある旧事を混同して書いているらしい。二股船《ふたまたぶね》を池に浮べた話・宗像三女神の示現などは[#「などは」は底本では「なとは」]、出雲風土記のあぢすきたかひこの神[#「あぢすきたかひこの神」に傍線]・垂仁のほむちわけ[#「ほむちわけ」に傍線]などに通じている。だから、みつはわけ天皇[#「みつはわけ天皇」に傍線]にも、生れて後の物語が、丹比壬生部に伝っていたことが推定できる。
六 比沼山がひぬま山[#「ひぬま山」に傍線]であること
みぬま[#「みぬま」に傍線]・みつは[#「みつは」に傍線]は一語であるが、みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]の、みつは[#「みつは」に傍線]も、一つものと見てよい。「罔象女」という支那風の字面は、この丹比神に一種の妖怪性を見ていたのである。またこの女性の神名は、男性の神名おかみ[#「おかみ」に傍線]に対照して用いられている。「おかみ」は「水」を司る蛇体だから、みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]は、女性の蛇または、水中のある動物と考えていたことは確からしい。大和を中心とした神の考え方からは、おかみ[#「おかみ」に傍線]・みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]皆山谷の精霊らしく見える。が、もっと広く海川について考えてよいはずである。
竜に対するおかみ[#「おかみ」に傍線]、罔象に当るみつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]の呪水の神と考えられた証拠は、神武紀に「水神を厳《イツ》[#(ノ)]罔象女《ミツハノメ》となす」とあるのでもわかる。だが大体に記・紀に見えるみつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]は、禊ぎに関係なく、女神の尿または涙に成ったとしている。逆に男神の排泄に化生したものとする説もあったかも知れぬと思われるのは、穢《けが》れから出ていることである。
阿波の国美馬郡の「美都波迺売《みつはのめ》神社」は、注意すべき神である。大和のみつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]と、みつは[#「みつは」に傍線]・みぬま[#「みぬま」に傍線]の一つものなることを示している。美馬の郡名は、みぬま[#「みぬま」に傍線]あるいはみつま[#「みつま」に傍線]・みるめ[#「みるめ」に傍線]と音価の動揺していたらしい地名である。地名も神の名から出たに違いない。「のめ」という接尾語が気になるが、とようかのめ[#「とようかのめ」に傍線]・おほみやのめ[#「おほみやのめ」に傍線]など……のめ[#「……のめ」に傍線]というのは、女性の精霊らしい感じを持った語である。神と言うよりも、一段低く見ているようである。みつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]の社も、阿波出の卜部などから、宮廷の神名の呼び方に馴れて、のめ[#「のめ」に傍線]を添えたしかつめらしい[#「しかつめらしい」に傍点]称えをとったのであろう。摂津の西境一帯の海岸は、数里にわたって、みぬめの浦[#「みぬめの浦」に傍線](または、みるめ)と称えられていた。ここには※[#「さんずい+文」、第3水準1−86−53]売《ミヌメ》神社があって、みぬめ[#「みぬめ」に傍線]は神の名であった。前に述べた筑後の水沼君の祀った宗像三女神は、天真名井《あまのまない》のうけひ[#「うけひ」に傍線]に現れたのである。だから、禊ぎの神という方面もあったと思う。が、おそらくは、みぬま[#「みぬま」に傍線]・宗像は早く習合せられた別神であったらしい。
丹後風土記逸文の「比沼山」のこと。ひちの郷[#「ひちの郷」に傍線]に近いから、山の名も比治山《ヒヂヤマ》と定められてしもうている。丹波の道主[#(ノ)]貴《ムチ》が言うのに、ひぬま[#「ひぬま」に傍線](氷沼)の……というふうの修飾を置くからと見ると、ひぬま[#「ひぬま」に傍線]の地名は、古くあったのである。このひぬま[#「ひぬま」に傍線]も、みぬま[#「みぬま」に傍線]の一統なのであった。
第一章に言うたようなことが、この語についても、遠い後代まで行われたらしい。「烏羽玉《うばたま》のわが黒髪は白川の、みつはくむ[#「みつはくむ」に傍線]まで老いにけるかな」(大和物語)という檜垣《ひがき》[#(ノ)]嫗《おうな》の歌物語も、瑞歯含《ミヅハク》むだけはわかっても、水は[#「は」に白丸傍点]汲むの方が「老いにけるかな」にしっくりせぬ。これはみつはの女神[#「みつはの女神」に傍線]の蘇生の水に関聯した修辞が、平安に持ち越してわからなくなったのを、習慣的に使うたまでだろうと説きたい。この歌などの類型の古いものは、もっとみつは[#「みつは」に傍線]の水を汲む為事が、はっきり詠まれていたであろう。とにかく、老年変若を希《ねが》う歌には「みつは……」と言い、瑞歯に聯想し、水にかけて言う習慣もあったことも考えねばならぬと思う。
丹比のみづはわけ[#「丹比のみづはわけ」に傍線]という名は、瑞歯の聯想を正面にしているが、初めは、みつは神[#「みつは神」に傍線]の名をとったことはすでに述べた。詞章の語句または、示現の象徴が、無限に譬喩化せられるのが、古代日本の論理であった。みつは[#「みつは」に傍線]が同時に瑞歯の祝言にもなったのである。だがこれは後についてきた意義である。本義はやはり、別に考えなくてはならぬ。
みぬま[#「みぬま」に傍線]・みつは[#「みつは」に傍線]・みつま[#「みつま」に傍線]・みぬめ[#「みぬめ」に傍線]・みるめ[#「みるめ」に傍線]・ひぬま[#「ひぬま」に傍線]。これだけの語に通ずるところは、水神に関した地名で、これに対して、にふ[#「にふ」に傍線](丹生)と、むなかた[#「むなかた」に傍線]の三女神が、あったらしいことだ。
丹後の比沼山の真名井に現れた女神は、とようかのめ[#「とようかのめ」に傍線]で、外宮《げくう》の神であった。すなわちその水および酒の神としての場合の、神名である。この神初めひぬまのまなゐ[#「ひぬまのまなゐ」に傍線]の水に浴していた。阿波のみつはのめ[#「みつはのめ」に傍線]の社も、那賀《なか》郡のわなさおほそ[#「わなさおほそ」に傍線]の神社の存在を考えに入れてみると、ひぬま[#「ひぬま」に傍線]真名井式の物語があったろう。出雲にもわなさおきな[#「わなさおきな」に傍線]の社があり、あはきへ・わなさひこ[#「あはきへ・わなさひこ」に傍線]という神もあった。阿波のわなさ・おほそ[#「わなさ・おほそ」に傍線]との関係が思われる。丹波の宇奈韋《ウナヰ》神が、外宮の神であることを思えば、酒の水すなわち食料としての水の神は、処女の姿と考えられてもいたのだ。これがみつは[#「みつは」に傍線]の一面である。
七 禊ぎを助ける神女
出雲の古文献に出たみぬま[#「みぬま」に傍線]は早く忘れられた神名であった。みつは[#「みつは」に傍線]は、まず水中から出て、用い試みた水を、あぢすきたかひこの命[#「あぢすきたかひこの命」に傍線]に浴《あび》せ申した。その縁で、国造|神賀詞《かむよごと》奏上に上京の際、先例通りそのみつは[#「みつは」に傍線]が出て後、この水を用い始めるという習慣のあったことを物語るのである。風土記のすでに非常に
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