曖昧なところがあるのは、古詞をある点まで、直訳し、また異訳して、理会できぬところはその俤《おもかげ》を出そうとしたからであろう。それが神賀詞となると、口拍子にのり過ぎて、一層わからなくなっているのである。おちこちの二か処の古川というのが、川岸というようになり、植物化して考えられていった。もっとも、神功紀のすら、植物と考えていたらしい書きぶりである。その詞章の表現は、やや宙ぶらりである。何としても「みつは……」は、序歌風に使われてい、みつはの神[#「みつはの神」に傍線]の若いと同様、若やかに生い出《い》ずる神とでも説くべきであろう。
思うに、みつは[#「みつは」に傍線]の中にも、稚みつは[#「稚みつは」に傍線]と呼ばれるものが、禊ぎの際に現れて、その世話をする。この神の発生を説いて、禊ぎ人の穢れから化生したという古い説明が伝わらなくなったのかも知れぬ。とにかく、この女神が出て、禊ぎの場処を上・下の瀬と選び迷うしぐさ[#「しぐさ」に傍線]をした後、中つ瀬の適《ヨロ》しい処に水浴をする。このふるまい[#「ふるまい」に傍線]を見習うて禊ぎの処を定めたらしい。これが久しく意義不明のまま繰返され、みぬま[#「みぬま」に傍線]としての女が出て、禊ぎの儀式の手引きをした。それがしだいに合理化して、水辺祓除のかいぞえ[#「かいぞえ」に傍線]に中臣女のような為事をするようになり、そのことに関した呪詞の文句がいよいよ無意義になり、他の知識や、行事・習慣から解釈して、発想法を拗《ねじ》れさせてきた。そこに、だいたいはきまって、一部分おぼろな気分表現が、出てきたのだろう。
大湯坐《オホユヱ》・若湯坐《ワカユヱ》の発生も知れる。みぬま[#「みぬま」に傍線]に、候補者または「控え」の義のわかみぬま[#「わかみぬま」に傍線]があったのであろう。大和宮廷の呪詞・物語には、みつは[#「みつは」に傍線]をただの雨雪の神として、おかみ[#「おかみ」に傍線]に対する女性の精霊と見た傾きがあり、丹生女神とすら、いくぶん、別のものらしく考えた痕《あと》があるのは、後入の習合だからであろう。
いざなぎ[#「いざなぎ」に傍線]の禊ぎに先だって、よもつひら坂[#「よもつひら坂」に傍線]に現れて「白《もう》す言《こと》」あった菊理《クヽリ》媛(日本紀一書)は、みぬま[#「みぬま」に傍線]類の神ではないか。物語を書きつめ、あるいはもともと原話が、錯倒していたため、すぐ後の檍原《アハギハラ》の禊《ミソ》ぎの条《くだり》に出るのを、平坂の黄泉道守《ヨモツチモリ》の白言と並べたのかも知れぬ。その言うことをよろしとして散去したとあるのは、禊ぎを教えたものと見るべきであろう。くゝり[#「くゝり」に傍線]は水を潜《クヾ》ることである。泳の字を宛てているところから見れば、神名の意義も知れる。くゝり[#「くゝり」に傍線]出た女神ゆえの名であろう。いざなぎの尊[#「いざなぎの尊」に傍線]ばかりの行動として伝えたため、この神は陰の者になったのであろう。例の神功紀の文は、このくゝり[#「くゝり」に傍線]媛からみつは[#「みつは」に傍線]へ続く禊ぎの叙事詩の断篇化した形である。住吉神の名は、底と中と表《ウヘ》とに居て、神の身を新しく活《いか》した力の三つの分化である。「つゝ」という語は、蛇(=雷)を意味する古語である。「を」は男性の義に考えられてきたようであるが、それに並べて考えられた※[#「さんずい+文」、第3水準1−86−53]売《ミヌメ》・宗像・水沼の神は実は神ではなかった。神に近い女、神として生きている神女なる巫女であったのである。海北[#(ノ)]道[#(ノ)]主[#(ノ)]貴《ムチ》は、宗像三女神の総称となっているが、同じ神と考えられてきた丹波の比沼[#(ノ)]神に仕える丹波[#(ノ)]道[#(ノ)]主[#(ノ)]貴は、東山陰地方最高の巫女なる神人の家のかばね[#「かばね」に傍線]であった。
八 とりあげ[#「とりあげ」に傍線]の神女
国々の神部《カムベ》の乞食《こつじき》流離の生活が、神を諸方へ持ち搬《はこ》んだ。これをてっとり[#「てっとり」に傍点]ばやく表したらしいのは、出雲のあはきへ・わなさひこ[#「あはきへ・わなさひこ」に傍線]なる社の名である。阿波から来経《キヘ》――移り来て住みつい――たことを言うのだから。前に述べかけた阿波のわなさおほそ[#「わなさおほそ」に傍線]は、出雲に来経たわなさひこ[#「わなさひこ」に傍線]であり、丹波のわなさ翁[#「わなさ翁」に傍線]・媼[#「媼」に傍線]も、同様みぬま[#「みぬま」に傍線]の信仰と、物語とを撒《ま》いて廻った神部の総名であったに違いない。養い神を携えあるいたわなさ[#「わなさ」に傍線]の神部は、みぬま[#「みぬま」に傍線]・わなさ[#「わなさ」に傍線]関係の物語の語りてでもあった。わなさ物語の老夫婦の名の、わなさ翁[#「わなさ翁」に傍線]・媼[#「媼」に傍線]ときまるのは、もっともである。論理の単純を欲すれば、比沼・奈具の神も、阿波から持ち越されたおほげつひめ[#「おほげつひめ」に傍線]であり、とようかのめ[#「とようかのめ」に傍線]であり、外宮の神だとも言えよう。だが、わなさ[#「わなさ」に傍線]神部の本貫については、まだまだ問題がありそうである。
私は実のところ、比沼のうなゐ神[#「比沼のうなゐ神」に傍線]は禊ぎのための神女であり、その仕える神の姿をも、兼ね示すようになったものと信じている。丹波[#(ノ)]道主[#(ノ)]貴の家から出る「八|処女《ヲトメ》」の古い姿なのである。この神女は、伊勢に召されるだけではなかった。宮廷へも、聖職奉仕に上っている。この初めを説く物語が、さほひめ皇后[#「さほひめ皇后」に傍線]の推奨によるものとしていたのである。知られ過ぎた段だが、後々の便宜のために、引いておく。
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亦、天皇、其后へ、命詔《ミコトモタ》しめして言はく、「凡《およそ》、子の名は必《かならず》、母名づけぬ。此子の御名をば、何とか称へむ。」かれ、答へ白《もう》さく、……。又|詔命《ミコトモタ》しむるは、「いかにして、日足《ヒタ》しまつらむ。」答へ白さく、「御母《ミオモ》を取り、大|湯坐《ユヱ》・若|湯坐《ユヱ》定め(御母を取り……湯坐に定めてと訓《よ》む方が正しいであろう。また、取御母を養護御母《トリミオモ》のように訓んで、……に――としての義――大湯坐……を定めてとも訓める)て、ひたし奉らば宜《ヨ》けむ。」かれ、其后の白しに随以《シタガヒモチ》て日足し奉るなり[#「日足し奉るなり」に白丸傍点]。又、其后に問ひて曰はく、「汝所堅之美豆能小佩《ナガカタメコシミヅノヲヒモ》(こおび[#「こおび」に傍線]か)は、誰かも解かむ。」答へ申さく、「旦波比古多々須美智能宇斯王《タニハノヒコタヽスミチノウシノミコ》の女《むすめ》、名は兄比売《えひめ》・弟《おと》比売、此|二女王《フタミコ》ぞ、浄き公民《オホミタカラ》(?)なる。かれ、使はさば宜《よ》けむ。……」
又、其后の白《もう》しのまゝに、みちのうしの王[#「みちのうしの王」に傍線]の女等、比婆須《ひばす》比売命、次に弟比売命(次に弟比売命……命……命とあるべきところだ)次に、歌凝《うたごり》比売命、次に円野《まとの》比売命、併せて四柱を喚上《メサ》げき。(垂仁記)
唯、妾死すとも、天皇の恩を忘れ敢へじ。願はくは、妾の掌《つかさど》れる后宮の事、宜しく好仇《ヨキツマ》に授け給ふべし。丹波国に五婦人あり。志|並《トモ》に貞潔なり。是、丹波道主王の女なり。〔道主王は、稚日本根子大日々天皇の子(孫)彦坐王の子なり。一に云はく、彦湯産隅王の子なり。〕当《まさ》に掖廷に納《い》れて、后宮の数に盈《ア》つべしと。天皇|聴《ゆる》す。……丹波の五女を喚《メ》して、掖廷に納る。第一を日葉酢《ヒハス》姫と曰《い》ひ、第二を渟葉田瓊入《ヌハタヌイリ》媛と曰ひ、第三を真砥野《マトヌ》媛と曰ひ、第四を※[#「竹かんむり/(角+力)」、98−8]瓊入《アザミヌイリ》媛と曰ひ、第五を竹野《たかの》媛と曰ふ。(垂仁紀)
[#ここで字下げ終わり]
この後が、古事記では、弟王二柱、日本紀では、竹野媛が、国に戻される道で、一人は恥じて峻淵《ふかきふち》に(紀では自堕輿とある)堕《お》ち入って死ぬ。それから、堕《オツ》国と言うた地名を、今では弟《オト》国と言うとあるいはながひめ[#「いはながひめ」に傍線]式の伝えになっている。
思うに、悪女の呪いのこの伝えにもあったのが、落ちたものであろう。ほむちわけのみこ[#「ほむちわけのみこ」に傍線]のもの言わぬ因縁を説いたのが、古事記では、すでに、出雲大神の祟りと変っている。出雲と唖王子とを結びつけた理由は、ほかにある。紀の自堕輿而死の文面は「自ら堕《オチイ》り、興《コトアゲ》して死す」と見るべきで、輿は興の誤りと見た方がよさそうだ。「おつ」・「おちいる」という語の一つの用語例に、水に落ちこんで溺れる義があったのだろう。自殺の方法のうち、身投げの本縁を言う物語を含んだものである。水の中で死ぬることのはじめをひらいた丹波道主貴の神女は、水の女であったからと考えたのである。
九 兄媛弟媛
やをとめ[#「やをとめ」に傍線]を説かぬ記・紀にも、二人以上の多人数を承認している。神女の人数を、七《ナヽ》処女・八《ヤ》処女・九《コヽノ》の処女などと勘定している。これは、多数を凡《おおよ》そ示す数詞が変化していったためである。それとともに実数の上に固定を来《きた》した場合もあった。まず七処女が古く、八処女がそれに替って勢力を得た。これは、神あそび[#「神あそび」に傍線]の舞人の数が、支那式の「※[#「にんべん+(八/月)」、第3水準1−14−20]《イツ》」を単位とする風に、もっとも叶うものと考えられだしたからだ。ただの神女群遊には、七処女を言い、遊舞《アソビ》には八処女を多く用いる。現に、八処女の出処《でどころ》比沼山にすら、真名井の水を浴びたのは、七処女としている。だから、七《ナヽ》――古くは八処女の八も――が、正確に七の数詞と定まるまでには、不定多数を言い、次には、多数詞と序数詞との二用語例を生じ、ついに、常の数詞と定まった。この間に、伝承の上の矛盾ができたのである。
神女群の全体あるいは一部を意味するものとして、七処女の語が用いられ、四人でも五人でも、言うことができたのだ。その論法から、八処女も古くは、実数は自由であった。その神女群のうち、もっとも高位にいる一人がえ[#「え」に傍線](兄)で、その余はひっくるめておと[#「おと」に傍線](弟)と言うた。古事記はすでに「弟」の時代用語例に囚《とら》われて、矛盾を重ねている。兄に対して大《オホ》あるごとく、弟に対して稚《ワカ》を用いて、次位の高級神女を示す風から見れば、弟にも多数と次位の一人とを使いわけたのだ。すなわち神女の、とりわけ神に近づく者を二人と定め、その中で副位のをおと[#「おと」に傍線]と言うようになったのである。
こうした神女が、一群として宮廷に入ったのが、丹波道主貴の家の女であった。この七処女は、何のために召されたか。言うまでもなくみづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]を解き奉るためである。だが、紐と言えば、すぐ聯想せられるのは、性的生活である。先達諸家の解説にも、この先入が主となって、古代生活の大切な一面を見落されてしもうた。事は、一続きの事実であった。「ひも」の神秘をとり扱う神女は、条件的に「神の嫁」の資格を持たねばならなかったのである。みづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]を解くことがただちに、紐主にまかれることではない。一番親しく、神の身に近づく聖職に備《そなわ》るのは、最高の神女である。しかも尊体の深い秘密に触れる役目である。みづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]を解き、また結ぶ神事があったのである。
七処女の真名井の天女・八処女の系統の
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