に傍線]のをさずき[#「さずき」に傍線](また、さじき)、懸崖《カケ》造りなのをたな[#「たな」に傍線]と言うたらしい。こうした処女の生活は、後世には伝説化して、水神の生け贄《にえ》といった型に入る。来るべき神のために機《はた》を構えて、布を織っていた。神御服《カムミソ》はすなわち、神の身とも考えられていたからだ。この悠遠な古代の印象が、今に残った。崖の下の海の深淵や、大河・谿谷の澱《よどみ》のあたり、また多くは滝壺の辺などに、筬《おさ》の音が聞える。水の底に機を織っている女がいる。若い女とも言うし、処によっては婆さんだとも言う。何しろ、村から隔離せられて、年久しくいて、姥となってしもうたのもあり、若いあわれな姿を、村人の目に印したままゆかはだな[#「ゆかはだな」に傍線]に送られて行ったりしたのだから、年ぱいはいろいろに考えられてきたのである。村人の近よらぬ畏《おそろ》しい処だから、遠くから機の音を聞いてばかりいたものであろう。おぼろげな記憶ばかり残って、事実は夢のように消えた後では、深淵の中の機織る女になってしまう。
 七夕《たなばた》の乞巧奠《きこうでん》は漢土の伝承をまる写しにしたように思うている人が多い。ところが存外、今なお古代の姿で残っている地方地方が多い。
 たなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]とは、たな(湯河板挙)の機中にいる女ということである。銀河の織女星は、さながら、たなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]である。年に稀におとなう者を待つ点もそっくりである。こうした暗合は、深く藤原・奈良時代の漢文学かぶれのした詩人、それから出た歌人を喜ばしたに違いない。彼らは、自分の現実生活をすら、唐代以前の小説の型に入れて表して、得意になっていたくらいだから、文学的には早く支那化せられてしもうた。それから見ると、陰陽道の方式などは、徹底せぬものであった。だから、どこの七夕祭りを見ても、固有の姿が指摘せられる。
 でも、たなばた[#「たなばた」に傍線]が天の川に居るもの、星合ひの夜に奠《オキマツ》るものと信じるようになったのには、都合のよい事情があった。驚くばかり多い万葉の七夕歌を見ても、天上のことを述べながら、地上の風物からうける感じのままを出しているものが多い。これは、想像力が乏しかったから、とばかりは言えないのである。古代日本人の信仰生活には、時間空間を超越する原理が備っていた。呪詞の、太初《ハジメ》に還す威力の信念である。このことは藤原の条にも触れておいた。天香具山《あめのかぐやま》は、すくなくとも、地上に二か所は考えられていた。比沼の真名井は、天上のものと同視したらしく、天《アメ》[#(ノ)]狭田《サダ》・長田は、地上にも移されていた。大和の高市は天の高市、近江の野洲《やす》川は天の安河と関係あるに違いない。天の二上《ふたかみ》は、地上到る処に、二上山を分布(これは逆に天に上《のぼ》したものと見てもよい)した。こうした因明《いんみょう》以前の感情の論理は、後世までも時代・地理錯誤の痕を残した。
 湯河板挙《ユカハダナ》の精霊の人格化らしい人名に、天[#(ノ)]湯河板挙があって、鵠《くぐい》を逐《お》いながら、御禊ぎの水門《ミナト》を多く発見したと言うている。地上の斎河《ユカハ》を神聖視して、天上の所在と考えることもできたからである。こうした習慣から、神聖観を表すために「天《アメ》」を冠らせるようにもなった。

     一三 筬もつ女

 地上の斎河《ユカハ》に、天上の幻を浮べることができるのだから、天漢に当る天の安河・天の河も、地上のものと混同して、さしつかえは感じなかったのである。たなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]は、天上の聖職を奉仕するものとも考えられた。「あめなるや、弟《おと》たなばたの……」と言うようになったわけである。天の棚機津女《たなばたつめ》を考えることができれば、それにあたかも当る織女星に習合もせられ、また錯誤からくる調和もできやすい。
 おと・たなばた[#「おと・たなばた」に傍線]を言うからは、水の神女に二人以上を進めたこともあるのだ。天上の忌服殿《イムハタドノ》に奉仕するわかひるめ[#「わかひるめ」に傍線]に対するおほひるめ[#「おほひるめ」に傍線]のあったことは、最高の巫女でも、手ずから神の御服を織ったことを示すのだ。
 古代には、機に関した讃え名らしい貴女の名が多かった。二三をとり出すと、おしほみゝの尊[#「おしほみゝの尊」に傍線]の后は、たくはた・ちはた媛[#「たくはた・ちはた媛」に傍線](また、たくはた・ちゝ媛[#「たくはた・ちゝ媛」に傍線])と申した。前にも述べた大国|不遅《フヂ》の女垂仁天皇に召された水の女らしい貴女も、かりはたとべ[#「かりはたとべ」に傍線](いま一人かむはたとべ[#「かむはたとべ」に傍線]をあげたのは錯誤だ)、おと・かりはたとべ[#「おと・かりはたとべ」に傍線]と言う。くさか・はたひ媛[#「くさか・はたひ媛」に傍線]は、雄略天皇の皇后として現れた方である。
 神功皇后のみ名おきなが・たらし媛[#「おきなが・たらし媛」に傍線]の「たらし」も、記に、帯の字を宛てているのが、当っているのかも知れぬ。
[#ここから2字下げ]
ひさかたの天《アメ》かな機。「女鳥《メトリ》のわがおほきみの織《オロ》す機。誰《タ》が料《タネ》ろかも。」
[#ここで字下げ終わり]
 記・紀の伝えを併せ書くと、こういう形になる。皇女・女王は古くは、皆神女の聖職を持っておられた。この仁徳の御製と伝える歌なども、神女として手ずから機織る殿に、おとずれるまれびと[#「まれびと」に傍線]の姿が伝えられている。機を神殿の物として、天を言うのである。言いかえれば、処女の機屋に居てはたらくのは、夫なるまれびと[#「まれびと」に傍線]を待っていることを、示すことにもなっていたのであろう。
[#ここから2字下げ]
天孫又問ひて曰はく、「其《カノ》秀起《ホダ》たる浪の穂の上に、八尋殿《やひろどの》起《タ》てゝ、手玉《タダマ》もゆら[#「ゆら」に傍点]に織《ハタ》※[#「糸+壬」、第3水準1−89−92]《オ》る少女《ヲトメ》は、是《これ》誰《た》が子女《ムスメ》ぞ。」答へて曰はく、「大山祇《おおやまつみ》[#(ノ)]神の女等、大《エ》は磐長《いわなが》姫と号《ナノ》り、少《オト》は、木華開耶《このはなさくや》姫と号《ナノ》る。」……(日本紀一書)
[#ここで字下げ終わり]
 これは、海岸の斎用水《ユカハ》に棚かけわたして、神服《カムハタ》織る兄《エ》たなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]・弟《オト》たなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]の生活を、ややこまやかに物語っている。丹波道主貴の八処女のことを述べたところで、いはなが媛[#「いはなが媛」に傍線]の呪咀は「水の女」としての職能を、、見せていることを言うておいた。このはなさくや媛[#「このはなさくや媛」に傍線]も、古事記すさのを[#「すさのを」に傍線]のよつぎを見ると、それを証明するものがある。すさのをの命[#「すさのをの命」に傍線]の子やしまじぬみの神[#「やしまじぬみの神」に傍線]、大山祇神の女「名は、木花知流《コノハナチル》比売」に婚《ア》うたとある。この系統は皆水に関係ある神ばかりである。だから、このはなちるひめ[#「このはなちるひめ」に傍線]も、さくやひめ[#「さくやひめ」に傍線]とほとんどおなじ性格の神女で、禊ぎに深い因縁のあることを示しているのだと思う。

     一四 たな[#「たな」に傍線]という語

 漢風習合以前のたなばたつめ[#「たなばたつめ」に傍線]の輪廓は、これでほぼ書けたと思う。だが、七月七日という日どりは、星祭りの支配を受けているのである。実は「夏と秋とゆきあひの早稲のほの/″\と」と言うている、季節の交叉点に行《おこの》うたゆきあい祭り[#「ゆきあい祭り」に傍線]であったらしい。
 初春の祭りに、ただ一度おとずれたぎりの遠つ神が、しばしば来臨するようになった。これは、先住漢民族の茫漠たる道教風の伝承が、相混じていたためもある。ゆきあい祭り[#「ゆきあい祭り」に傍線]を重く見るのも、それである。春と夏とのゆきあい[#「ゆきあい」に傍線]に行うた鎮花祭と同じ意義のもので、奈良朝よりも古くから、邪気送りの神事が現れたことは考えられる。鎮花祭については、別に言うおりもあろう。ただ、木の花の散ることの遅速によって、稲の花および稔りの前兆と考え、できるだけ躊躇《ヤスラ》わせようとしたのが、意義を変じて、田には稲虫のつかぬようにとするものと考えられた。それと同時に、農作は、村人の健康・幸福と一つ方向に進むものと考えた。だから、田の稲虫とともに村人に来る疫病は、逐《お》わるべきものとなった。春祭りの「春田打ち」の繰り返しのような行事が、だんだん疫神送りのような形になった。

     一五 夏の祭り

 七夕祭りの内容を小別《こわ》けしてみると、鎮花祭の後すぐに続く卯月《うづき》八日の花祭り、五月に入っての端午の節供《せっく》や田植えから、御霊《ごりょう》・祇園の両祭会・夏神楽までも籠めて、最後に大祓え・盂蘭盆《うらぼん》までに跨っている。夏の行事の総勘定のような祭りである。
 柳田先生の言われたように、卯月八日前後の花祭りは、実は村の女の山入り日であった。おそらくは古代は、山ごもりして、聖なる資格を得るための成女戒をうけたらしい日である。田の作物を中心とする時代になって、村の神女の一番大切な職分は、五月の田植えにあるとするに到った。それで、田植えのための山入りのような形をとった。これで今年の早処女《さおとめ》となる神女が定まる。男もおおかた同じころから物忌み生活に入る。成年戒を今年授かろうとする者どもはもとより、受戒者もおなじく禁欲生活を長く経なければならぬ。霖雨《ながあめ》の候の謹身《ツヽミ》であるから「ながめ忌み」とも「雨《アマ》づゝみ」とも言うた。後には、いつでもふり続く雨天の籠居を言うようになった。
 このながめいみ[#「ながめいみ」に傍線]に入った標《シルシ》は、宮廷貴族の家長の行《おこの》うたみづのをひも[#「みづのをひも」に傍線]や、天の羽衣ようの物をつけることであった。後代には、常もとりかく[#「とりかく」に傍点]ようになったが、これは田植えのはじまるまでのことで、いよいよ早苗をとり出すようになると、この物忌みのひも[#「ひも」に傍線]は解き去られて、完全に、神としてのふるまいが許される。それまでの長雨忌《ナガメイ》みの間を「馬にこそ、ふもだしかくれ」と歌われた繋《カイ》・絆《ホダシ》(すべて、ふもだし[#「ふもだし」に傍線])の役目をするのが、ひも[#「ひも」に傍線]であった。こういう若い神たちには、中心となる神があった。これら眷属を引き連れて来て、田植えのすむまで居て、さなぶり[#「さなぶり」に傍線]を饗《ウ》けて還る。この群行の神は皆簔を着て、笠に顔を隠していた。いわば昔考えたおに[#「おに」に傍線]の姿なのである。



底本:「古代研究※[#ローマ数字I、1−13−21]―祭りの発生」中央公論新社
   2002(平成14)年8月10日発行
初出:「民族 第二巻第六号」
   1927(昭和2年)年9月
   「民族 第三巻第二号」
   1928(昭和3年)年1月
※訓点送り仮名は、底本では、本文中に小書き右寄せになっています。
※底本では「八 とりあげ[#「とりあげ」に傍線]の神女」の〔道主王は、稚日本根子大日々天皇の子(孫)彦坐王の子なり。一に云はく、彦湯産隅王の子なり。〕は二行に渡り小書きになっています。
※底本の題名の下に書かれている「昭和二年九月、三年一月「民族」第二巻第六号、第三巻第二号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:
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